「東福寺宛」という表現について
禁制の効力が及ぶ範囲を「充所」と呼ぶことについて、高木昭作「乱世」は文書の受給人=宛名を充所と呼ぶため「場所が充所になりえる筈はない」と指摘し、徳川秀忠の右筆曽我直祐の記す書札礼*1にもとづき「所付」を採用すべきと説いている*2。ただし、ここでは秀吉文書集の用語法や慣用に鑑み「充所」と呼ぶこととする。
定 東福寺*3
一、当寺境内にをいて五位鷺*4・雉*5の事ハ不及申、鷹*6一切つかふへからさる事、
一、山林・竹木ほりとる*7ましき事、
右条〻堅被停止訖、若於違犯*10之輩者忽可被処厳科者也、
天正十六年二月 日(朱印)
(書き下し文)
定
一、当寺境内において五位鷺・雉のことは申すにおよばず、鷹一切使うべからざること、
一、山林・竹木掘り採るまじきこと、
一、庭の石、樹木取るべからざること、
右の条〻堅く停止せられおわんぬ、もし違犯の輩においては、たちまち厳科に処せらるべきものなり、
(大意)
定
一、東福寺境内にて五位鷺・雉を狩ることはもちろん、一切の鷹狩りを禁ずる。
一、山林に分け入り、竹や樹木を掘り採ることは禁ずる。
一、庭石や樹木を持ち去ることを禁ずる。
以上の条文に反した者は速やかに厳罰に処するものである。
2月日付の禁制はほかに妙心寺と龍安寺(!)に発せられているが、そちらには花押が据えてあり厚礼である*12。禁制は日付なしの「月日」(ガツジツ)付で発せられることが多い。
二、三条目は建築物の材料になるものの掠奪を禁止している。特に注目されるのは三条目の「庭の石」で、石垣を組むのに石切り場などから運送する「正規の供給ルート」で賄いきれず「寸借」する者があとを絶たなかったようだ。もちろん転売目的の者もいたはずである。
庭石は堅牢な建築物を建てる際の礎石にもなる。礎石は柱の劣化や沈下を防ぎ、大規模で耐用年限が飛躍的に伸びる建造物の建立を可能とするが、一方で高度な建築技術を要する。技術の革新が新たな需要を呼び、それに供給が追いつかなかったのだろう。
礎石を使わない建築方法、つまり地面に穴を掘り直接柱を埋めこむことを掘立柱と呼ぶ。手軽に安価でつくれるが小規模なものに限られ、耐用年数も短い。粗末な家を「掘立小屋」と呼ぶのはこのためである。
この禁制の効力が及ぶ範囲は東福寺境内という場所・領域であるが、「東福寺文書」として伝えられているところから見て、文書の受給者は「団体」としての東福寺であり、「所付」である東福寺を実質的な充所とみなすことは可能である。ただし、文書の様式を重視すれば別の見方も可能であろう。
*1:ショサツレイ。守らなければならない儀礼(書礼)と故実をいい,またそのことについて述べた書物をいう。流派により「あれはよろしくない」とか「こちらがよろしい」といった今日の「マナー本」に通じるところがある
*2:『歴史学研究』574号、1987年、67~68頁
*3:山城国愛宕郡
*4:もとコウノトリ目サギ科、現在はペリカン目サギ科の鳥類。食用。別名夜ガラス。勅命により捕らえられようとしたサギが素直にしたがったので醍醐天皇から「五位」の位を授けられたことから「五位鷺」と呼ばれるようになったという伝承がある
*5:キジ目キジ科キジ属の鳥類。鳥肉中の最高のものとされ、鷹狩もキジをとる目的で行われた。鷹狩は猛禽類を馴致して、別の鳥獣類を捕獲させ、それを人間が掠め取る間接的な狩猟方である。鵜飼やアユの友釣りなども同様の原理を利用しており、猟犬もまた同様である。イヌは狩猟時代から家畜化されるが、ネコは農耕が始まってからで、人間の生活様式の変化にともない、人間と動物の関係も変化する好事例である。なお栽培化も家畜化も英語ではdomesticationという
*6:鷹狩り
*7:掘り採る
*8:礎石にする石
*9:植木または樹木。生えている樹木。今日「植木」といえば鉢植えや観賞用の樹木に限定されるが、ここでは木材になるようなもの
*10:イボン
*11:三、2440号
*12:2441~2442号