日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年12月24日山城国福寿院宛豊臣秀吉朱印状写

 

原・越畑両村*1山役并炭薪*2事、被成免除*3上者如有来山林共可令存知*4者也、

 

  天正十五*5    御朱印

 

   十二月廿四日   秀吉

 

        福寿院*6

 

(三、2404号)

 

(書き下し文)

 

原・越畑両村山役ならびに炭薪のこと、免除なさるる上は有り来たるごとく山林ともに存知せしむべきものなり、

 

(大意)

 

原・越畑両村の山役および薪炭について、(秀吉が)免除された以上従来のとおり山および林ともに福寿院が支配するものとする。

 

 

 

本文書は原本にはありえない「秀吉」という署名が朱印の脇にあるという「写」ならではの書式である点注意したい。書写した者が「御朱印」のみでは「ありがたみ」=証拠能力を欠くと考えて「気を利かせて」ご丁寧に書き添えたのだろう。個人的には「秀吉」という実名(じつみょう)では嘘くささが漂うので「太閤様御朱印」などの方が穏当だと思う。

 

下線部にあるように秀吉は「有り来たるごとく」と先例を踏襲して山役などを免除する、すなわち福寿院の荘園支配を認めている。秀吉のみならず信長や他の戦国大名も「先規のごとく」といった文言を多用しているように、従来の慣習や裁定、あるいはすでに定められた「法令」*7にしたがって紛争処理に当っているケースは決して珍しくない*8。彼らがあらゆるものを思い通りに変えていったという先入観、鈴木真哉氏の指摘した「天下人史観」は前後即因果の誤謬を犯した後知恵バイアスの典型例だと思われる*9。歴史学においてもこうしたバイアスを避けるため「起こりえたかもしれない別の事象」を検討すべきことは、マックス・ヴェーバーが「相当的因果関係」*10と「偶然的因果関係」の秤量を説いているとおりである*11

 

Fig. 山城国葛野郡原・越畑両村概略図

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                      Google Mapより作成

 

果たせるかな、この朱印状写は実際に「由緒」の正当性を主張する根拠となった。32年のちの元和5年(1619)1月、原村は国境を隔てた隣村丹波の出雲村・小口村の者たちによる襲撃を受けた。この時期の百姓が自力救済の挙に出ることは、幕府法令に「郷中にて百姓など山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄炮にて互いに喧嘩致し候者あらば、その一郷成敗致すべきこと」*12とあるように珍しいことではなかったが、「喧嘩」の具体的様相が窺える史料なので読んでみたい。

 

 

      乍恐申上候

 

山城国原村へ丹波国出雲村・小口村の者共もうせひ*13にておし入、森林竹をきり取、剰田畠の樹木をかり取、其上小口村忠右衛門尉ざいをふり*14在所へうち入、家をやふりらんはう*15を仕候、其人数の中一人とめ置申候、殊ニ丹波山城の国ざかい迄原村より三拾町*16程有、すきの木同とびがしやう*17と申所也、其上御代々の御朱印御座候、少村の儀ニ御座候間*18、御じひ*19に御定使*20にて御覧被成候て被仰付候者可忝*21候、以上、

  元和五年正月吉日                  山城国原村

  御奉行様

 

 

(書き下し文)

 

      恐れながら申し上げ候

 

山城国原村へ丹波国出雲村・小口村の者ども猛勢にて押し入り、森林竹を伐り取り、あまつさえ田畠の樹木を刈り取り、その上小口村忠右衛門尉麾を振り在所へ討ち入り、家を破り乱妨を仕り候、その人数のうち一人留め置き申し候、ことに丹波山城の国境まで原村より三拾町ほどあり、杉の木同じく鳶ヶ城と申すところなり、その上御代々の御朱印御座候、少村の儀に御座候あいだ、御慈悲に御定使にて御覧なされ候て仰せ付けられそうらわば忝じけながるべく候、以上、

 

(大意)

 

    恐れながら申し上げます

 

山城国原村へ丹波の出雲村・小口村の者たちが大勢で押しかけ、森林の竹木を伐り取り、そのうえ田畠のそばに植えている樹木を刈り取り、さらには小口村の忠右衛門尉の指揮のもと郷村へ討ち入り、家屋を破壊し掠奪を行いました。その軍勢のうち一人はとらえて留置しています。とりわけ丹波山城国境まで原村から30町ほどある杉の木、同じく鳶が城というところです。代々の御朱印があります。小村ですので、御慈悲をもって定使を派遣して御覧いただき裁定して下さればさいわいです。以上です。

 

(『新修亀岡市史資料編第二巻』412頁)

 

 

唐突に話題が変わり、文意が必ずしもはっきりしないところもあるが、おおむね次のような主張を原村はしているようだ。すなわち上図のように丹波の出雲村・小口村の者たちが大勢で押しかけ、小口村の忠右衛門という「右衛門府の三等官」*22を意味する名前を持つ者の指揮のもと家屋を破壊し、掠奪の限りを尽くしたという。これは一種の軍事行動であり、すなわち百姓たちは戦国大名などの指揮下に入らずとも彼らのみで軍事的行動をとれたことを示している。

 

ここで裁定を仰ぐために持ち出した根拠が「御代々の御朱印」、つまり上記秀吉の朱印状であった。本記事で採り上げた文書はいずれも「樒原共有文書」という村有文書で、30年の後には「」が村有財産として受け継がれ、村の存続を左右する「切り札」となっていた。朱印状の充所が領主である福寿院であったにもかかわらず、である。その「写し取った」過程や事情は不明ながら在地において今日まで伝えられてきたことの意味は大きい。

 

この合戦についてはこのあとも続くので次回も述べたい。

*1:中世は丹波国桑田郡、のち山城国葛野郡。下図参照

*2:タンシン、炭や薪などの燃料、薪炭

*3:「免除する」主体は「なされ」という敬意表現から秀吉で、客体は充所の福寿院

*4:ゾンチ。その「職」を全うすること、すなわち支配すること

*5:1587

*6:山城国愛宕山、両村の領主

*7:その法令が実在しようとしなかろうと

*8:経路依存

*9:『天下人史観を疑う―英雄神話と日本人』洋泉社

*10:相当的因果関係とは「ある行為からその結果が発生することが経験上相当である」と認められるときに、行為が結果の原因とされる関係

*11:『歴史学の方法』講談社学術文庫

*12:慶長14年(1609)2月2日徳川秀忠黒印状写。児玉幸多・大石慎三郎編『近世農政史料集一』4頁

*13:猛勢。大勢

*14:麾を振り。「采配のもとに」の意

*15:乱妨。掠奪の意

*16:1町は約110メートル。30町は3,300メートル。ちなみに36町=1里

*17:鳶ヶ城。杉の木とともに地名か

*18:小さな村であるので

*19:慈悲

*20:ジョウシ。現地に派遣される役人

*21:カタジケナガル

*22:ちなみに源義経が任じられたのが「検非違使尉」で検非違使の「尉」は「判官」と書く