肥後国天草郡内千七百五十*1之事、此度以御恩*2地之上、為被宛行之訖、全令領知、小西摂津守*3于致合宿*4、可抽忠節候也、
天正十六 後五月十五日 御朱印
大矢野民部大輔とのへ*5
(三、2512号)
(書き下し文)
肥後国天草郡のうち千七百五十石のこと、このたび御検地の上をもって、これを宛てがわせられおわんぬ、まったく領知せしめ、小西摂津守に合宿いたし、忠節抽くんずべく候なり、
(大意)
肥後国天草郡のうち1750石、このたびの検地により充行うものである。これを領知し、小西行長の与力として忠節をつくすように。
Fig. 肥後国天草郡大矢野島周辺図
佐々成政自害の翌日、天草五人衆の一人、大矢野種基に秀吉から発せられた朱印状写である。写であるため、やや不自然な表現が散見される。
これにより種基は秀吉の直臣となり、小西行長を寄親とする軍団に組み込まれた。つまり自立した国衆から豊臣「小名」と変貌を遂げた瞬間でもある。こうした事例でもっとも有名なのは信濃の真田氏であろう。