日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正16年閏5月15日大矢野種基宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

肥後国天草郡内千七百五十*1之事、此度以御恩*2地之上、為被宛行之訖、全令領知、小西摂津守*3于致合宿*4、可抽忠節候也、

   天正十六 後五月十五日 御朱印

      大矢野民部大輔とのへ*5

 

(三、2512号)

 

(書き下し文)

 

肥後国天草郡のうち千七百五十石のこと、このたび御検地の上をもって、これを宛てがわせられおわんぬ、まったく領知せしめ、小西摂津守に合宿いたし、忠節抽くんずべく候なり、

 

(大意)

 

肥後国天草郡のうち1750石、このたびの検地により充行うものである。これを領知し、小西行長の与力として忠節をつくすように。

 

Fig. 肥後国天草郡大矢野島周辺図

              『日本歷史地名大系 熊本県』より作成

 

佐々成政自害の翌日、天草五人衆の一人、大矢野種基に秀吉から発せられた朱印状写である。写であるため、やや不自然な表現が散見される。

 

これにより種基は秀吉の直臣となり、小西行長を寄親とする軍団に組み込まれた。つまり自立した国衆から豊臣「小名」と変貌を遂げた瞬間でもある。こうした事例でもっとも有名なのは信濃の真田氏であろう。

*1:石脱カ

*2:検カ

*3:行長

*4:「宿」には家のほかに家々が集まってできる村の意がある。ここではそうした一箇所に集住しての意

*5:種基、天草五人衆の一人中村城主。洗礼名ジャコベ