日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年8月日町野重仍・上部貞永宛豊臣秀吉朱印状写

 

 

    定

 

一、最前度〻以御朱印*1被仰出候、猶以諸事猥無之、大神宮可相守神慮*2儀肝要之事、

 

一、博奕*3任御法度停止之事、

 

一、宮河内*4地下人公事*5等之時、両人*6ニ申聞、於相紛者*7山田三方*8年寄*9共一同罷在、可致言上事、付諸座并大工所*10被相破事

 

一、盗人之儀能〻遂糺明、山田上下*11相渡可成敗事、

 

右之条〻被定置畢、若違犯之輩於在之者、忽被処罪科之由*12也、

 

   天正十五年八月 日 御朱印

            町野左近*13

            上部越中守*14

(三、2286号)

 

(書き下し文)

 

    定

 

一、最前度〻御朱印をもって仰せ出だされ候、なおもって諸事猥りこれなく、大神宮相守るべき神慮の儀肝要のこと、

 

一、博奕御法度に任せ停止のこと、

 

一、宮川のうち地下人公事などのとき、両人に申し聞き、相紛れるにおいては山田三方年寄ども一同罷り在り、言上致すべきこと、つけたり諸座ならびに大工所相破るるべきこと、

 

一、盗人の儀よくよく糺明を遂げ、山田上下相渡し成敗すべきこと、

 

右の条〻定め置かれおわんぬ、もし違犯の輩これあるにおいては、たちまち罪科に処せらるべきの由なり、

 

 

(大意)

    

    定書

 

一、以前より何度も朱印状が発せられているとおり、万事滞りなく伊勢神宮をお守りすべき神慮を最優先するように。

 

一、博奕は以前より御法度なので禁止のこと。

 

一、宮川より内側の住人が揉め事を起こしたときは町野・上部両名に申し開きをするように訴人・論人の申し立てを聞くように。それでも紛糾した際は山田三方の年寄が上坂し、訴え出るように。つけたり、諸座および大工所は撤廃すること。

 

一、盗人を捕縛した際は是非を糺し、山田上下の者へ身柄を渡し処罰しなさい。

 

右定めたところである。これに背く者は厳しく処罰する。

 

 

 Fig.1 伊勢国度会郡山田・宇治周辺図

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                   『日本歴史地名大系 三重県』より作成

天正12年12月4日上部・町野両名連署で「山田三方」宛に定書が下されている*15

 

山田三方は下図のように「三方」と記し、代表者三名の「立派」な花押を据えているように文書の受発給者となる主体で、それを差配したのが上部・町野である。

Fig.2 「山田三方」花押

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史料編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」年未詳4月14日光明寺宛山田三方書状

 

               (花押1)

     卯月十四日 三方  (花押2)

                  (花押3) 

 

 

上部貞永は伊勢の御師で、御師とは参詣者を遠隔地から誘導し、祈祷や宿泊の世話をするものである。御師の縄張り(テリトリー)を「檀那場」、「霞」、「霊場」などと呼ぶ。なかでも伊勢御師は全国的なネットワークを展開し、伊勢白粉や伊勢暦、茶など伊勢みやげを檀家にもたらし、商人的性格を帯びていた。天正2年10月1日、織田信長は貞永配下の高向源二郎・同二頭大夫が尾張国の「檀那」(信者=パトロン)と契約したことを認める旨の朱印状を発している*16。こうした地域的・宗教的有力者を取り込むことで、信長や秀吉は支配を固めていったのだろう。
 

檀那場も「檀那職」として譲渡や売買の対象となった。当然ながら縄張り争いも絶えず「島を荒らす」行為はしばしば見られる。檀那がサンスクリット語の「布施」を意味する「ダナー」に由来すること、「ダナー」が臓器提供者を意味する「ドナー」の語源であることは今日よく知られるが、檀那(ダンナ)は寺社に金銭を文字通りダナー=ドネイトしていた。

 

近世になると「瞽女」、「座頭」などと呼ばれる人々が定期的に村を訪れ、村の財政である「村入用」から彼ら/彼女らに金銭が支出されている。訪問先の村もおそらく「縄張り」的なもので檀那場であったと思われる。村人にとっては「情けは人のためならず」の精神の発露だったのだろう。

 

なお子牛が市場に売られてゆく様を「ドナドナドーナドーナ」と悲しげな調べで歌う「ドナドナ」とは関係なさそうである。

 

 

追記 2021年7月11日

 

「両人」を上部・町野両名としたのは誤り。原告である「訴人」と被告である「論人」両名に申し開きさせる、とすべきだった。天正12年の両名連署状で山田三方に次のように命じている。

 

故実法度を相守らるべし、論所対決においては三問三答たるべし、

 

 

三問三答とは、原告である訴人が裁定機関へ「訴状」を提出して受理されると、被告である論人へ弁明を求める「問状」が発せられる。訴状と問状を受け取った論人は「陳状」という答弁書を提出し、訴人に反論する。証拠となる文書などもあわせて提出するが、これを三回繰り返すことを三問三答と呼び、中世の伝統的訴訟方式である。訴人論人が申し立てをすることを「訴陳」という。 

 

 

*1:天正12年12月4日山田三方宛上部貞永町野重仍連署「定書」中に見える「秀吉様御諚の趣き」か

*2:神の御心、天子の意思

*3:バクエキまたはバクチ。囲碁や樗蒲、双六など勝負を争う遊戯の総称。賭博

*4:宮川より内側=伊勢神宮側。図1参照

*5:訴訟のこと。中世で「公事」といえば多くは年貢以外の課役=現物・現夫や銭納を意味したが、近世では「公事方御定書」のように裁判という意味で用いられた。富沢清人氏によれば「いやでも避けがたいこと」から天然痘=「疱瘡」の意味もあるという

*6:町野と上部、追記参照

*7:調停できないときは

*8:山田の自治組織、「岩渕方」「須原方」「坂方」よりなる。図2参照

*9:「重立った指導者」の意味で「老・乙名・長」などを「おとな」と読むのと同じ。相撲の「年寄株」にその痕跡を留める。なお「おとな」には「成人した/アダルトの」以外に「指導者」=Führerの意味があり、成人したからといって「おとな」になれるわけではない

*10:「大工職」を持つ者がたむろする会所。大工職は大工職人の営業独占権、あるいは親方として番匠などの職人をとりしきる権利で相続、売買の対象となった。現在と異なり、中世までは土木建築に限らず手工業技術者全般の「長」を指す。元亀2(1571)年6月23日織田信長は尾張国愛知郡鍋屋上野村の鉄屋太郎左衛門=水野範直に「鉄屋大工(鋳物師)職」の安堵を認める朱印状を発している。奥野信長文書集286号。また天文4(1535)年12月10日「一屋之鍛冶後室(後家)にし女」は鍛冶父子の後生菩提を弔うため、大徳寺智永坊に銭100疋にて「当寺鍛冶大工職」を永代売買している。大徳寺文書929~930号

*11:上掲「定書」中の「僧俗老若とも」に相当。「山田全体」の意

*12:「由」だと「罪科に処せられるそうだ」、「罪科に処せられるとのこと」となり朱印状の文面としては不自然。写し取った者が「候」を読み損なったのだろうか

*13:重仍、山田奉行

*14:ウワベ貞永、伊勢外宮の権祢宜

*15:「大日本史料」第11編10冊277頁

*16:奥野信長文書集475号