日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年8月6日小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状

 

 

去月廿三日之書状、今日至京都到来披見候、隈部*1事早速申付之由、尤思召候、如書中黒田勘解由*2・森壱岐守*3かたゟ言上候、其方預ヶ置*4候両国*5之者共*6、自然不届族在之者、任覚悟*7可被刎首候、弥其城*8普請等事、念を入可申付候、不可有由断候也、

   八月六日*9(朱印)

       小早川左衛門佐とのへ*10 

(三、2277号)
 
(書き下し文)
 
去る月廿三日の書状、今日京都に至り到来、披見候、隈部のこと早速申し付くるのよし、もっともに思し召し候、書中のごとく黒田勘解由・森壱岐守かたゟ言上候、その方預け置き候両国の者ども、自然不届これあるにおいては、覚悟に任せ首を刎ねらるべく候、いよいよその城普請などのこと、念を入れ申し付くべく候、由断あるべからず候なり、
 
(大意)
 
昨月23日付の書状、本日京都にて拝見しました。隈部親永の件について早速出兵を命じたとのこと、至極もっともなことだと思います。書面にあるとおり、黒田孝高・毛利吉成より報告がありました。そなたに預けた筑前・筑後両国内の者どもが万一反旗を翻すようなことがあれば、迷いなく首を刎ねるように。より一層博多の普請などのこと入念に命じること。くれぐれも油断なきように。
 
 

 

隈府は菊池氏が肥後の守護となったことで「隈部の中心地」から「隈府」(クマフ)と呼ばれるようになった。のち肥後の中心地が熊本に移ると熊本=「隈府」(クマフ)と区別するため「ワイフ」と呼ぶようになったらしい。ちなみに「府」とは都、中心地を意味する。1943年東京府東京市は東京都へ移行したが「東京府」と「東京都」の意味に違いはない。「首都」を「首府」と呼ぶのと、また「ソニック」という特急がコンコルドのようにソニックブームを発しながら走るわけでもないのと同じ理屈である。

 

ただし、政令指定都市に置かれる「区」と東京特別区は同じ「区」という呼称を使うものの、議会、市区町村税の徴収権の有無や人事採用など似て非なる同床異夢ものである。そのためか政令指定都市の「区」を英語で「Ward」というのに対し、東京23区=特別区は「City」と訳される。千代田区は「Chiyoda Ward」ではなく「Chiyoda City」である。さらに事情を複雑にするのが近世村の後継団体である「財産区」である。ここにも「区長」という職が置かれ、行政の下部団体として位置づけられる*11。こちらはcommunityやvillage、hamletあたりだろうか*12。したがって同じ「区長」でも選挙で選出される特別区長、行政職員から任命される政令指定都市「区長」、名誉職扱いで多くは持ち回りの「区長」の最低で三通りあるので注意を要する用語である。

 

菊地氏滅亡後は赤星・隈部両氏が競い、天正6年隈部親永がこれを破り隈府城主となった。

 

 Fig. 肥後国菊池郡隈府(ワイフ)城と熊本=隈府(クマフ)

f:id:x4090x:20210705154359p:plain

                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 無駄話が長くなったので本文に入る。隈部親永は肥後菊池郡隈府(ワイフ)城主で有力国人の一人である。佐々成政が肥後に入封したさい親永は「菊池郡桑部(隈部)が領内にいたりて、得こそ指出し申すまじけれ」(菊池郡隈部の領内に入ったところ、自分のものとはするものの指出など決してするまい)*13と言い放ったという。本文書が発せられた8月6日、成政は3000余騎の軍勢を差し向けたようである。

 

文中の「隈部のこと」とは隈部親永による反豊臣政権一揆のことであった。漸進的な路線を採用するよう命じた秀吉とは対照的に、成政はドラスティックな路線を採用したようだ。これが国人層の反発を招き、肥後国人一揆に発展した。

 

成政の加勢として肥後に赴いた隆景に対して「覚悟に任せ」首を刎ねよと命じているのは、一度蜂起した者たちを許すことはないという決意の表れでもある。将来的に武力蜂起する可能性のあるものは徹底的に殲滅する=「撫で切り」にせよと命じているのである。

 

つけたり いわゆる「村八分」の語源について

 

共同体の制裁として10ある共同作業のうち葬儀と火事を除く8割について除外するので「村八分」と呼ぶというもっともらしい説明をよく聞く。しかし1923年京都府宇治郡役所発行の『宇治郡誌』24~25頁「制裁上の旧慣」を見ると「村八分」という用語が使われていないのみならず、以下のような「制裁」をかつて加えていたとする。

 

 

一、永遠に村集会、その他宴会席など人寄せる場所においては末席に座せしむること、

 

四、生死の手伝いはもちろん祝賀・会葬などをなさざること

 

六、嫁入りなどの節、なるべくこれに妨害を加うること

 

七、縁談聞き合わせ*14などの節は、なるべく悪し様に伝うること

 

宇治郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション (19コマ目)

 

 

これらは文書に記されたものではなく聞書によるものなので相互に矛盾する記述もある。しかし一は村の集会で末席に座らせるとあり、排除していないことが明らかである。また四は「生死の手伝いなどもするな」という慣行があったことを示しており、すなわち葬儀にも関わるなということになる。この2点は「八分」の語源とまったく相反する。

 

さらに六や七になると「八分」という引き算式制裁というより、積極的・意図的な実力行使であり、「村八分」に倣えばむしろ「村十二分」などと呼ぶべきではないかとさえ思えてくる。とくに六などは嫁入りの行列に突撃せよと推奨しているのであるから、もはや「絶縁」を越える干渉である。

 

「日本大百科全書」(竹内利美)、「世界大百科事典」(福田アジオ)はいずれも俗説として斥けている。実際「なかまはずし」、「なべかむり」、「はぐれ」、「むらはずし」など様々な呼称があり、語源とするのは無理がある。以上フィールドワークの成果から「村八分」というのは「よくできた」机上の産物=フィクションである可能性が高い。もちろんこうした行為を「村八分」と呼ぶのは問題ないが、大正期に一般的でなかったことを念頭に置くと、竹内利美氏にならって「村ハチブ」とカタカナ書きとするのが誤解を招かない妥当な表現であろう。

*1:クマベ親永、肥後国菊池郡隈府(ワイフ)城主。下図参照

*2:孝高

*3:毛利吉成、豊前国企救郡小倉城主

*4:「預け置く」というのは「給人は当座の儀」という思想から自然と導かれる帰結である

*5:筑前・筑後

*6:国人や土豪など豊臣政権に反旗を翻しそうな者たち

*7:悟ること、迷いなく

*8:博多

*9:天正15年

*10:隆景

*11:予算は自弁・持ち出しが多い

*12:近年なにかと話題の「消防団員」はこの共同体の労役義務で、給与所得を得る「消防署員」とは別物である

*13:『太閤記』岩波文庫、上、275頁

*14:問い合わせ、照会。興信所による「身元」調査のたぐい。「聞き合わせ」のみで婚約する前にあらかじめ家柄や人物を確かめることを意味する地方もある