日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年10月13日有馬晴信(カ)宛豊臣秀吉朱印状

 

肥前国一揆等端〻*1令蜂起之由候、指儀*2雖不可有之候、迚*3御人数被遣儀候条、卒尓*4之動不可仕候、小早川左衛門佐*5・黒田勘解由*6・森壱岐守*7久留米*8ニ在之事候、毛利右馬頭*9早速可着陣候条、無越度*10様専一候、 御人数之儀者、左右次第追〻可被遣候、其上和州大納言*11・近江中納言*12被差越、唐国迄も可被仰付候九州事、五畿内同前ニ被思召候条、可成其意候、猶石田治部少輔*13可申候也、

   十月十三日*14(朱印)

      有馬左衛門大夫とのへ*15

(三、2342号)

 

 (書き下し文)

 

 肥前国一揆などはしばし蜂起せしむるのよし候、指したる儀これあるべからず候といえども、とても御人数遣わる儀に候条、卒尓の動き仕るべからず候、小早川左衛門佐・黒田勘解由・森壱岐守、久留米にこれあることに候、毛利右馬頭早速着陣すべく候条、越度なきよう専一に候、 御人数の儀は、左右次第追〻遣わさるべく候、その上和州大納言・近江中納言差し越され、唐国までも仰せ付けらるべく候九州のこと、五畿内同前に思し召され候条、その意をなすべく候、石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

肥前国のあちらこちらで一揆が蜂起しているとのこと。大したことではないと思いますが、多数を派兵しますので軽率な行動に出ないようにしてください。隆景・孝高・毛利吉成が久留米城に在陣しています。輝元も早々に着陣することでしょうから、越度のないようにすることが肝心です。軍勢は状況をみて派兵しますし、秀長と秀次を派遣し、唐まで支配するように命じるつもりです。九州仕置は五畿内と同様にすべきと考えていますのでお心得下さい。なお詳しくは三成が口頭で申し上げます。

 

 

大友義統・立花宗茂・筑紫広門・鍋島直茂・波多信時・龍造寺政家あてにも同日付でほぼ同文の文書が発せられている*16。ただし、秀長・秀次のあとに「備前宰相」(宇喜多秀家)の名が見えることや取次役に石田三成の名前が記されていないなど多少の異同はある。

 

 Fig. 肥前国一揆関係図

 

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                   『日本歴史地名大系 長崎県』より作成

肥後国人一揆と対峙していた秀吉軍だったが、後方の肥前国人の西郷信尚が伊佐早(諫早)城を奪還しようとした。これを秀吉は「肥前国一揆」*17と見做したわけである。秀吉はこの時肥後と肥前の二正面作戦をとらざるを得なくなった。これまで在地に対して中世的秩序*18を温存する漸進的な態度をとっていた秀吉だが、この事件を契機に下線部③に見られるように九州も「五畿内同前に」支配すべきと態度を改めたようだ。

 

10月21日付小早川隆景宛朱印状では「一揆など撫で切りに申し付くべく候」*19、12月27日付同人宛判物で「逆意の族尋ね捜し、ことごとく成敗あるべく候、国郡荒し候ても苦しからず候*20と書き送り、郷村が荒廃しても構わないから翻意のある者は探し出し首を刎ねよと徹底的な殲滅作戦を命じている。

 

信尚の伊佐早奪還を「私戦」と見做す豊臣政権の「惣無事」とはこのようなかたちでも発動されるのだ。

 

下線部②の「唐国まで支配下に置くことになるだろう」とこの時点ですでに明言していることにも注意したい。

 

*1:ハシバシ。そこかしこ

*2:サシタル儀。否定をともなって「大したことなのない」、「これといって問題とすべきでない」

*3:トテモ。大変な

*4:ソツジ。軽率な

*5:隆景

*6:孝高

*7:毛利吉成

*8:筑後国

*9:輝元

*10:高木昭作「乱世」(『歴史学研究』574号、1987年、71頁)によると「越度」には頓死や戦死の意味もあるという

*11:豊臣秀長

*12:豊臣秀次

*13:三成

*14:天正15年

*15:晴信カ

*16:2343~2348号

*17:下線部①

*18:秩序をロシア語で言えばуклад=ウクラードになる

*19:2372号

*20:2407号