日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年9月8日毛利吉成・黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 於肥後国御朱印被下候*1国人之事*2

 

志岐兵部大夫*3

 

上津浦愛宮*4

 

栖本八郎*5

 

西郷越中守*6

 

赤星備中守*7

 

城十郎二郎*8父讃岐入道*9在大坂

 

伯耆次郎三郎*10在大坂

 

内空閑備前守*11

 

小代伊勢守*12

 

関城主*13

 

隈部但馬守*14

 

八代拾四人衆

 

同所参十人衆

 

阿蘇宮神主*15

 

右者共申分於在之者、可令言上候、最前(闕字)御朱印之旨無相違候処、自然企逆意候者、悉先〻*16追妻子共可被加御成敗之条、此面〻*17ニ能〻申聞、可申越候也、

   九月八日*18(朱印)

 

       森壱岐守とのへ*19

 

       黒田勘解由とのへ*20

 

 
(三、2300号)

 

(書き下し文)

 

 肥後国において御朱印下され候国人のこと

 

志岐兵部大夫

上津浦愛宮

栖本八郎

西郷越中守

赤星備中守

城十郎二郎、父讃岐入道大坂にあり

伯耆次郎三郎、大坂にあり

内空閑備前守

小代伊勢守

関城主

隈部但馬守

八代拾四人衆

同所参十人衆

阿蘇宮神主

 

右の者ども申し分これあるにおいては、言上せしむべく候、最前御朱印の旨相違なく候ところ、自然逆意を企てそうらわば、ことごとく先〻妻・子共を追い御成敗を加うらるべくの条、この面〻によくよく申し聞かせ、申し越すべく候なり、

 

(大意)

 

 肥後国において朱印状を下され本領安堵された国人のこと

 

(中略)

 

右の者のうちで異議がある者は上申させなさい。先日下された朱印状の趣旨通りに行うべきところ、万一逆意を構える者があれば、妻子をことごとく追い詰め、成敗すべきものである。この点を彼らによくよく申し聞かせ、状況を逐一報告しなさい。

 

 

 

列挙されている国人の本貫地を地図上にプロットしてみた。熊本の佐々成政を取り囲むように広汎に分布している。本文中にあるように彼らに秀吉は朱印状を発給し、本領安堵するなど漸進的で妥協的な措置をとった。しかし、成政は次回以降述べるように彼らの領分に検地を強行した。これは国人たちにとって「父祖伝来の」土地に土足で踏み込むも同然の所業である。

 

本文書は朱印状の趣旨を徹底し、異議があれば申し立ての機会を与え、それでも抵抗すれば妻子ともども攻め滅ぼすと、衣の下に鎧をちらつかせる最後通牒*21の意味をもつ。

 

Fig. 肥後国人勢力図

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

「禍福はあざなえる縄の如し」というが、赤星、城、名和などは上坂していたため一揆に加わらなかった。

 

さてこれまで9月8日付の文書をいくつか読んだ。下表のようにこの日発給された文書は少なくとも8通ある。豊臣政権にとって「もっとも長い一日」のひとつであったのだろう。

Table. 天正15年秀吉発給文書通数日別一覧

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                344通/355日=0.97通/日、秀吉文書集第3巻目次より作成

 

*1:朱印状により知行地を安堵された

*2:以下〇は秀吉に降伏、×は敵対、△は不在など

*3:鎮経、天草五人衆のひとつ、〇

*4:コウツウラ種直、同上、〇

*5:スモト親高、同上、〇

*6:未詳

*7:統家、菊池氏三家老のひとつ、△

*8:武房、同上

*9:城親基、△

*10:名和顕孝、△

*11:ウチコガ鎮照、×

*12:ショウダイ親忠、△

*13:大津山家稜=イエヒト、×

*14:親永、菊池氏三家老のひとつ、×

*15:阿蘇惟光、肥後国一宮阿蘇社の大宮司家、〇

*16:ゆくゆく

*17:国人たち

*18:天正15年

*19:毛利吉成

*20:孝高

*21:律令制で上下関係にない官庁同士でやりとりする文書を「牒」あるいは「移」と呼んだ。上申文書は「解」、下達文書は「符」という