志岐兵部大夫*3
上津浦愛宮*4
栖本八郎*5
西郷越中守*6
赤星備中守*7
伯耆次郎三郎*10、在大坂
内空閑備前守*11
小代伊勢守*12
関城主*13
隈部但馬守*14
八代拾四人衆
同所参十人衆
阿蘇宮神主*15
右者共申分於在之者、可令言上候、最前(闕字)御朱印之旨無相違候処、自然企逆意候者、悉先〻*16追妻子共可被加御成敗之条、此面〻*17ニ能〻申聞、可申越候也、
九月八日*18(朱印)
森壱岐守とのへ*19
黒田勘解由とのへ*20
(三、2300号)
(書き下し文)
肥後国において御朱印下され候国人のこと
志岐兵部大夫
上津浦愛宮
栖本八郎
西郷越中守
赤星備中守
城十郎二郎、父讃岐入道大坂にあり
伯耆次郎三郎、大坂にあり
内空閑備前守
小代伊勢守
関城主
隈部但馬守
八代拾四人衆
同所参十人衆
阿蘇宮神主
右の者ども申し分これあるにおいては、言上せしむべく候、最前御朱印の旨相違なく候ところ、自然逆意を企てそうらわば、ことごとく先〻妻・子共を追い御成敗を加うらるべくの条、この面〻によくよく申し聞かせ、申し越すべく候なり、
(大意)
肥後国において朱印状を下され本領安堵された国人のこと
(中略)
右の者のうちで異議がある者は上申させなさい。先日下された朱印状の趣旨通りに行うべきところ、万一逆意を構える者があれば、妻子をことごとく追い詰め、成敗すべきものである。この点を彼らによくよく申し聞かせ、状況を逐一報告しなさい。
列挙されている国人の本貫地を地図上にプロットしてみた。熊本の佐々成政を取り囲むように広汎に分布している。本文中にあるように彼らに秀吉は朱印状を発給し、本領安堵するなど漸進的で妥協的な措置をとった。しかし、成政は次回以降述べるように彼らの領分に検地を強行した。これは国人たちにとって「父祖伝来の」土地に土足で踏み込むも同然の所業である。
本文書は朱印状の趣旨を徹底し、異議があれば申し立ての機会を与え、それでも抵抗すれば妻子ともども攻め滅ぼすと、衣の下に鎧をちらつかせる最後通牒*21の意味をもつ。
Fig. 肥後国人勢力図
「禍福はあざなえる縄の如し」というが、赤星、城、名和などは上坂していたため一揆に加わらなかった。
さてこれまで9月8日付の文書をいくつか読んだ。下表のようにこの日発給された文書は少なくとも8通ある。豊臣政権にとって「もっとも長い一日」のひとつであったのだろう。
Table. 天正15年秀吉発給文書通数日別一覧
*1:朱印状により知行地を安堵された
*2:以下〇は秀吉に降伏、×は敵対、△は不在など
*3:鎮経、天草五人衆のひとつ、〇
*4:コウツウラ種直、同上、〇
*5:スモト親高、同上、〇
*6:未詳
*7:統家、菊池氏三家老のひとつ、△
*8:武房、同上
*9:城親基、△
*10:名和顕孝、△
*11:ウチコガ鎮照、×
*12:ショウダイ親忠、△
*13:大津山家稜=イエヒト、×
*14:親永、菊池氏三家老のひとつ、×
*15:阿蘇惟光、肥後国一宮阿蘇社の大宮司家、〇
*16:ゆくゆく
*17:国人たち
*18:天正15年
*19:毛利吉成
*20:孝高
*21:律令制で上下関係にない官庁同士でやりとりする文書を「牒」あるいは「移」と呼んだ。上申文書は「解」、下達文書は「符」という