日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年7月27日黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

豊前国宇佐郡内妙見・龍王両城*1、当知行分四百八拾九町三段之由、其方所へ申越旨候、任其帳面*2相改致検地、右田畠之員数彼両城へ相付、大友左兵衛督*3ニ慥可相渡候也、

   七月廿七日*4(朱印)

      黒田勘解由とのへ*5

(三、2271号)

 

 (書き下し文)

 

豊前国宇佐郡内妙見・龍王両城、当知行分四百八十九町三段のよし、そのほう所へ申し越す旨に候、その帳面に任せ相改め検地致し、右田畠の員数彼の両城へ相付け、大友左兵衛督にたしかに相渡すべく候なり、

 

(大意)

 

豊前国宇佐郡内の妙見岳城および龍王城周辺、489町3段大友義統が当知行していると、そなたへ申し出るそうである。義統の言う帳面をよく調べた上で検地を行い、右の田畠を両城に付けて義統に必ず渡すようにしなさい。

 

 

 Fig. 豊前国宇佐郡妙見岳城・龍王城

 

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                   『日本歴史地名大系 大分県』より作成

島津氏攻略後、秀吉は黒田孝高に豊前のうち京都・築城・中津・上毛・下毛・宇佐の6郡を与えた。このうち宇佐郡については大友義統が当知行している分があるので渡すよう命じたのが本文書である。

 

義統は年末にこのうちから佐田鎮信に85町余を与えている。上図の青い丸で囲ったところが該当地であるが、義統が宇佐郡で当知行している490町近くの17パーセントにあたる。

  

ここでも城と知行地がセットとなっており、行政施設としての城という意味合いが見られる。

Table. 佐田鎮信宛大友吉統坪付 

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本文書中の「検地」が実際に人を現地に派遣して棹や縄で計測する「竿入」=丈量検地を意味するのかは判断できない。たんに帳簿の土「地」を「検」(しらべ)よと言っていたとも考えられるからである。検地を行うには現地の案内なしには不可能であり、隠田の摘発など郷村(財産を所有する主体としての)内部の事情に踏み込むことになるので反発も予想される。

 

実際孝高による検地は自己申告制だったようである*6

 

この22年ほど前の永禄8年、大友宗麟は豊前に条書を出している。その四条目に次のようにある。

 

 

一、散在*7と号し百姓ら先例に背き、未断*8の拵え*9これあるにおいては、聊尓*10の輩、注進により成敗の儀、申し出ずべきのこと、

 

(大意)

 

一、逃散と称し百姓らが先例に背いて、年貢未納のはかりごとをする企てがあれば、そのような者どもを成敗するときは事前に申し出よ。

『中世法制史料集5』609号、75頁

 

 

 充所を欠いているのではっきりしないところもあるが、おそらく家臣に対して百姓を成敗する前に注進せよと命じているのだろう。重要な点は「散在」=逃散・逃亡する百姓があとを絶たなかった点である。

 

こうした状況はその後も続いたようで文禄2年6月20日、隣国豊後を蔵入地としようとした際、百姓が逃亡したことを秀吉は「沙汰の限りの曲事」と難じている*11

 

 ちなみに3年後の天正18年3月16日、大友義統は豊後大分郡にある柞原八幡宮に黒田孝高の「非道」を訴えている。その願文には以下のようにある。

 

 

黒田官兵衛近年豊前国居住、誠にかかる悪逆仁*12なり、神明*13に背き、人心を妨げ、

 

 義統と孝高はおそらく本文書あたりから関係がギクシャクし始めたのだろう。孝高に与えられた宇佐郡内に、義統が当知行している土地があると異儀を申し立てたのであるから十分予想される事態ではある。

 

*1:下図参照

*2:「その帳面」が具体的に何の帳面を指すのかは不明だが、下表のような大友氏が作成した「坪付帳」のたぐいと思われる

*3:義統

*4:天正15年

*5:孝高

*6:小和田哲男『黒田如水』ミネルヴァ書房、2012年

*7:「点在」という意味ではなく逃散・逃亡であろう

*8:処置の済んでいない。年貢未納のこと

*9:企て、準備

*10:不届きな

*11:「島津家文書之一」351号

*12:

*13: