(包紙ウハ書)
「 千石権兵衛尉とのへ*1
長宗我部弥三郎とのへ*2 」
豊後中ニ謀反人有之由、小早川*3・安国寺*4・黒田勘解由*5かたより註進候、何たる子細候哉*6、
一、豊後へ両人*7差遣候儀ハ国為在番*8、国中無別儀様にと被思食、数度之御書*9にも委細被仰遣候処ニ、豊後国をは不相固他国へ相動付而、其国ニ謀反人*10有之由候、豊後をさへ不取固、よ*11の国*12へ相動段無分別、中/\*13(闕字)御書にも難被述仰思召候事、
一、此上者聊尓なる無動*14、府内*15ニ成とも又ハよ*16の城に成共陣取手堅有之而、上方の人数可相待候義専要候事、
一、毛利右馬頭*17かたへも追〻被仰遣候間細〻*18可有註進候、人数被仰付候間、何方ニ籠城有之とも、可入合*19儀案之内ニ被思召候事、
一、其国之様子有様ニ一書を以可申上候、其次第ニ有御分別*20、諸事可被仰付候事、
一、無心元候間人数為先勢、備前衆*21、淡路*22・阿波*23者共被仰付候事、
右能〻令得心、卒尓*24之儀不可有之候也、
霜月十三日*25 (花押)
千石権兵衛尉とのへ
長宗我部弥三郎とのへ
(三、2013号)(書き下し文)豊後中に謀反人これあるよし、小早川・安国寺・黒田勘解由方より註進に候、何たる子細候や、
一、豊後へ両人差し遣わし候儀は国在番として、国中別儀なきようにと思し食され、数度の御書にも委細仰せ遣わされ候ところに、豊後国をば相固めず、他国へ相動くについて、その国に謀反人これある由に候、豊後をさえ取り固めず、余の国へ相動く段分別なく、なかなか御書にも述べ仰せられがたく思し召し候こと、
一、この上は聊尓なる動きなく、府内になるとも、または余の城になるとも陣取り手堅くこれありて、上方の人数相待つべく候義専要に候こと、
一、毛利右馬頭へも追〻仰せ遣わされ候あいだ、こまごま註進あるべく候、人数仰せ付けられ候あいだ、いずかたに籠城これあるとも、入り合うべき儀案の内に思し召され候こと、
一、その国の様子ありように一書をもって申し上ぐべく候、それ次第に御分別あり、諸事仰せ付けらるべく候こと、
一、心元なく候あいだ人数先勢として、備前衆、淡路・阿波の者ども仰せ付けられ候こと、
右よくよく得心せしめ、卒尓の儀これあるべからず候なり、
(大意)豊後国内に謀反人がいると隆景・恵瓊・孝高より報告があったが、一体全体どうなっているのか。一、豊後へふたりを派遣したのは豊後の治安維持のためであって、豊後国内に支障がないようにと、文書にも何度となく詳しくしたためていたはずである。にもかかわらず豊後を固めないうちに、他国へ軍事行動に移したとは。その国には謀反人がいるとのこと。豊後すら完全に掌握していないにもかかわらず、他国へ攻め入るなど無分別であり、わざわざ文面にしたためることすら憚られることである。一、今後は軽挙妄動を慎み、府内城であろうと他の城であろうと陣を固め、上方よりの軍勢を待つようにしなさい。一、近日中に輝元に派遣を命ずるので、逐一報告しなさい。軍勢を向かわせるのでどこの城に籠もろうとも必ず合流すること。一、豊後国の様子についてはありのままを文書に記して報告しなさい。それによって秀吉が判断し、万事命ずるものである。一、そなたたちが余りにもふがいなく、心許ないので先勢として備前衆や淡路・阿波の者たちを派兵する。右についてよくよく留意し、粗相のないようにしなさい。
この文書は千石秀久・長宗我部信親の豊後国仕置の不始末についての譴責状である。 下線部に「心元なく候あいだ」とあるように、秀吉の両名に対する失望はかなりのもので、小早川隆景にも「無分別ゆえに」、「はなはだ然るべからず」と述べている*26。
本文中の「謀反人」とは直入郡岡城主入田*27義実とのことで、昨天正13年から島津氏に内応していた。
Fig.1 豊後国における大友氏と島津氏
島津氏家臣の上井覚兼は同年10月10日条に「義統をはじめ、豊衆*28みなみな彼方へ罷り立ち候」*29と大野・直入両郡から豊臣勢力を駆逐した旨誇らしげに書き記している。
秀吉は豊後国の支配基盤を固めぬうちに島津領国中へ攻め入ることを戒めたわけだが、鎗働きのみが武功ではないということである。
5年後の天正19年8月増田長盛宛大友義統「豊後国御検地目録写」によると郡別の石高は下表の通りで、割合は下図のようになる。注目されるのは「荒地」が1.7パーセントに及んでいる点である。
Table. 豊後国検地目録
Fig.2 同割合
大友氏と島津氏の合戦の舞台裏では下記のような行為が行われていた。
①先年豊州*30において乱妨取り*31の男女のこと、分領中尋ね捜しあり次第帰国の儀申し付くべく候、隠し置くにおいては越度たるべく候、ならびに②人の売買一切相止むべく候、先年相定められ候*32といえども、かさねて仰せ出され候なり、
十一月二日*33(秀吉朱印)
嶋津修理大夫とのへ*34
『大日本古文書 島津家文書之一』362頁、371号文書
この史料に見られるように、中世から近世初期にかけて相手の領国中で男女を問わず生け捕りにし売買の対象としていた*35。秀吉は島津義久に彼ら/彼女らを国許へ返すよう命じているが、同様のことは大友氏も行っていただろう。荒地が戦乱による荒廃はもちろん、こうした労働力の不足によってももたらされていただろうことは想像に難くない。
つけたり
秀吉を評する言葉として膾炙する「人たらし」について以下のような見解に接した。
「豊臣秀吉は人たらしの名人だった」 : 日本語、どうでしょう?
小説家による造語であり、「誤用」ではないとする点は説得的だが、同時代用語であるか否か、また実際に秀吉がそのような人物であったかは別の問題である。同時代の辞書「日葡辞書」には「タラシ」とは「詐欺師」、「口先でだます人」の意味しかなく、「多くの人に好かれる、とりこにしてしまう」意味合いはない*36。「薩摩藩士」、「長州藩士」、「脱藩」などといった言葉も同様に戦後の造語である*37。また正直なところ「男女残らず磔刑に処したそうで、実にいい気分である」*38、「一郷も二郷も撫で切りにしてしまえ」などと家臣に書き送る者を果たして「多くの人に好かれる、とりこにしてしまう」人物といえるのかといえば、はなはだ疑問である。
*1:秀久
*2:元親の長男、信親。この年の12月12日戸次川にて島津軍と交戦し戦死
*3:隆景
*4:恵瓊
*5:孝高
*6:隆景・恵瓊・孝高より豊後国内に謀反人がいるとの報告を受けたが一体どういうことなのか?
*7:秀久・信親
*8:豊後国の治安を維持するために
*9:秀吉からの文書
*10:天正14年10月22日大友氏家臣の入田義実が島津氏と呼応し直入郡ほぼ全郡を掌握したこと。なお前年11月1日島津氏家臣新納忠元が義実に「知行については年寄衆に報告しているので間違い」旨の起請文を発している。『大日本史料』第11編22冊96頁。また「上井覚兼日記」同13年11月20日条
*11:余
*12:筑後国へ攻め入ったこと
*13:かえって、むしろ
*14:軽挙妄動を慎み
*15:豊後国大分郡
*16:余
*17:輝元
*18:コマゴマ
*19:イリアウ。合流する
*20:秀吉の判断
*21:宇喜多秀家ら
*22:脇坂安治・加藤嘉明
*23:蜂須賀家政ら
*24:ソツジ、軽率な
*25:天正14年
*26:2012号
*27:ニュウタ
*28:豊後勢=大友勢
*29:「上井覚兼日記」同日条
*30:豊前・豊後ともに「豊州」。大友氏分国のこと
*31:「乱取」。戦争で行われる物や人に対する略奪行為。下線部②のように売買の対象となる
*32:天正15年6月19日秀吉発給文書「日本においては人の売買停止のこと」を指す。2243号。ただし2244~2245号文書にはこの文言はない
*33:天正15年6月19日以降
*34:義久
*35:黒田本「大坂夏の陣図屏風」など
*36:ただし詐欺師には人をとりこにする魅力が必要不可欠である。強面で強引に売りつけるのは押売だから
*37:戦前の史料集には「鹿児島藩」、「萩藩」とある
*38:2016~2017号