日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年12月3日片倉景綱宛豊臣秀吉判物および多賀谷重経宛同判物写(惣無事令)

  

 

対富田左近将監*1書状披見候、関東惣無事之儀今度家康*2ニ被仰付候之条、其段可相達候、若相背族於有之者可加成敗候間、可得其意候也、

  十二月三日*3(花押)

     片倉小十郎とのへ*4

 

(三、2036号)

 

対石田治部少輔*5書状遂披見候、関東・奥両国*6迄惣無事之儀今度家康ニ被仰付条、不可有異儀候、若於違背族者可令成敗候、猶治部少輔可申候也、

  十二月三日*7(花押影)

     多賀谷修理進とのへ*8

(三、2038号)
 
(書き下し文)
 
富田左近将監に対する書状披見候、関東惣無事の儀このたび家康に仰せ付けられ候の条、その段相達すべく候、もし相背く族これあるにおいては成敗を加うべく候あいだ、その意をうべく候なり、
 
 
石田治部少輔に対する書状披見を遂げ候、関東・奥両国まで惣無事の儀このたび家康に仰せ付けらるの条、異儀あるべからず候、もし違背の族においては成敗せしむべく候、なお治部少輔申すべく候なり、
 
 
(大意)
 
富田一白への書状拝読しました。関東惣無事の件はこのたび家康に命じましたのでその旨伝えます。もしこれに背く者があれば成敗しますのでお含み置きください。
 
石田三成への書状拝読しました。関東・奥羽両国まで惣無事とする旨家康に命じましたので、これに反するようなことはしないように。もしこれに背いた者は成敗します。詳しくは三成が申します。
 
 

   

藤木久志氏は同日付の白土右馬助宛判物を加え、これらを「惣無事令」と呼んだ*9。惣無事令とは何か、氏自身の言葉を引用しよう。

 

  

豊臣政権による職権的な広域平和令であり、戦国の大名領主間の交戦から百姓間の喧嘩刃傷にわたる諸階層の中世的な自力救済権の行使を体制的に否定し、豊臣政権による領土高権の掌握をふくむ紛争解決のための最終的裁判権の独占を以てこれに代置し、軍事的集中と行使を公儀の平和の強制と平和侵害の回復の目的にのみ限定しようとする政策の一端をになうものであった。このような政策を、わたくしは仮に惣無事令と名づけて、豊臣政権の全国統一の特質を平和令の視角から体系的に追究してみようとしている

 (同上書38頁、ゴシック体による強調は引用者)

 

ただこれら三点の文書を藤木氏は天正15年に比定している。さらに「惣無事令」という呼称が適切か否かはいまだ決着を見ていない。本文書集では14年としている。

 

家康に関東や奥羽の惣無事を施行するように命じたのでこれに背くことのないようにとの趣旨である。惣無事に背く行為とは秀吉が公認しない戦争=私戦を行う行為であり、違反者として代表的なのは伊達政宗だろう。のち政宗が秀吉に臣従した際、この「私戦」によって獲得した領地は没収された。

 

 

*1:一白、信長・秀吉に仕える。様々な大名間の取次を務めた

*2:徳川

*3:天正14年

*4:景綱、伊達政宗家臣

*5:三成

*6:陸奥に出羽を加えた「両国」と解釈した

*7:天正14年

*8:重経、常陸国下妻城主。佐竹義重と連携し早くから秀吉と誼を通じる

*9:同『豊臣平和令と戦国社会』40頁、1985年、東京大学出版会。大名の平和=惣無事令、村落の平和=喧嘩停止令、百姓の平和=刀狩令、海の平和=海賊禁止令。これらを藤木氏は「豊臣平和令」と総称した。「平和令」は神聖ローマ帝国の「ラントフリーデ」Landfriedenに倣ったものである