就大友入道*1上洛*2、九州分目*3相定候*4、遠境候条、彼国者共*5若令難渋者、可差下人数*6候間、右馬頭*7相談、此方城々丈夫*8可申付候、次人質*9事、入念可相渡黒田官兵衛尉*10候、猶具*11安国寺*12可被申候也、
四月十日*13(朱印)
小早川左衛門佐とのへ*14
吉川駿河守とのへ*15
吉川治部少輔とのへ*16
(三、1873号)
(書き下し文)
大友入道上洛について、九州分目相定め候、遠境に候条、かの国の者どももし難渋せしめば、人数を差し下すべく候あいだ、右馬頭と相談じ、この方城々丈夫申し付くべく候、次に人質のこと、入念に黒田官兵衛尉へ相渡すべく候、なおつぶさに安国寺申さるべく候なり、
(大意)
宗麟が上洛することについて、九州国分の条目を定めたところである。遠国であるので、豊後国の者たちが抵抗するかもしれないが、その時は軍勢を派遣する。輝元とよく相談し、城などを堅固につくっておくように。次に人質の件であるが、十分に注意して孝高に引き渡しなさい。詳しくは恵瓊に申し述べる。
大友宗麟(義鎮)・義統父子は島津勢との攻防で劣勢に立たされ、秀吉に臣従する道を選んだ。秀吉に臣従するというのはとりもなおさず秀吉による国分*17を受け入れることを意味する。国分を実際に行う毛利輝元や小早川隆景、吉川元春・元長父子に指示を出したのが本文書と次号である。
宗麟父子は軍門に下ったものの、抵抗する者も現れる可能性に言及しており、戦国大名の家臣たちが大名に対して独立的だったことを示している。