(包紙ウハ書)
「 立花左近将監とのへ*1
高橋主膳入道とのへ*2 」
対黒田勘解由*3・宮木入道*4七月九日書状到来候、抑九州事帯条目*5、豊*6・芸*7・薩*8江加下知*9候之処、義統・輝元令承伏、以和合之儀馳走尤神妙候、然而島津事至于筑紫領内*10相動、于今在陣之由無是非候、此旨最前義統註進候条、則毛利・小早川*11・吉川*12等越関戸*13義統令相談、急度可及行*14由申含、黒田勘解由・宮木差下候シ、定而不可有由断候、此上敵不逃散者、輝元註進次第追〻差遣人数、其上秀長*15・秀次*16を始可相動候之条、彼凶徒等*17可加伐罰*18候、然者両人*19事依忠節望等之儀可申付候、味方中申談、聊無越度様調儀*20専一候、宗滴*21・義統へも具被仰下候間、可得其意候也、
八月三日*22 (花押)
立花左近将監とのへ
高橋主膳入道とのへ
(三、1923号)
(書き下し文)
黒田勘解由・宮木入道に対する七月九日書状到来候、そもそも九州のこと条目を帯し、豊・芸・薩へ下知を加え候のところ、義統・輝元承伏せしめ、和合の儀をもって馳走しもっとも神妙に候、しかりて島津こと筑紫領内にいたり相動き、今に在陣のよし是非なく候、この旨最前義統註進候条、すなわち毛利・小早川・吉川など関戸を越え義統相談せしめ、きっとてだてに及ぶべきよし申し含め、黒田勘解由・宮木差し下しそうらいし、さだめて由断あるべからず候、この上敵逃散せずんば、輝元註進次第おいおい人数を差し遣わし、その上秀長・秀次をはじめ相動くべく候の条、かの凶徒など伐罰を加うべく候、しからば両人こと忠節により望などの儀申し付くべく候、味方中申し談じ、いささかも越度なきよう調儀専一に候、宗滴・義統へもつぶさに仰せ下され候あいだ、その意を得べく候なり、
(大意)
黒田孝高・宮木堅甫への7月9日付の文書到着しました。九州の国分について条目を使者に持たせ、大友・毛利・島津へ下知を下したところ、大友義統と毛利輝元は下知にしたがい、和平のため奔走したこと実に神妙なことです。しかるに島津義久はいまだ筑紫領内に侵入し在陣しているとは言語道断の振る舞いです。この旨義統が伝えてきので、ただちに輝元・隆景・元春らが関戸を越えて義統と合流しかならず制圧するよう申し含め、孝高・堅甫を派遣しました。けっして油断のないように。さらに島津軍が撤退しないのなら、輝元から報告あり次第軍勢を派遣し、秀長や秀次をはじめとする豊臣本軍が行動に移りますので、かの島津軍たちに誅罰を加えるはずです。そういうわけで両人には働きに応じて望みに応じるよう申しつけます。味方とよく話し合いいささかも落ち度がないように調整することが大切です。宗麟・義統父子へも詳しく申しつけますので、お含み置きください。
Fig.1 筑前国立花城・宝満城・岩屋城周辺図
Fig.2 高橋紹運・立花宗茂関係図
大友氏の家臣筋にあたる立花宗茂・高橋紹運父子への文書である。島津氏降伏後、立花氏は秀吉から13万石を与えられ豊臣大名となる。
秀吉の九州国分が、毛利・大友・島津の三氏の国郡境目相論、すなわち「私戦」を停止するよう命じたことであることが読み取れる。毛利氏はすでに秀吉に臣従していたはずだが、前回の松浦鎮信宛判物にもあるように領国の西端ではいまだ「私戦」に勤しんでいたらしい。
*1:宗茂
*2:紹運、宗茂の実父
*3:孝高
*4:堅甫
*5:一つ書きからなる文書。1874号もしくは1902~1904号のことカ
*6:豊前・豊後=大友義統
*7:安芸=毛利輝元
*8:薩摩=島津義久
*9:豊臣側から見た「私戦」停止命令
*10:①九州全体、②筑前・筑後の二ヶ国、③その二ヶ国に火(肥)の国、豊の国を併せた九州北部などの意味があるがここでは大友氏領国内を意味する③
*11:隆景
*12:元春
*13:文書集には「長門国」とあるが、安芸との国境近くの周防国玖珂郡関戸カ
*14:テダテ、軍事行動
*15:豊臣
*16:同上
*17:島津勢
*18:バツバツ、誅罰と同義
*19:宗茂と紹運
*20:調整すること
*21:大友宗麟
*22:天正14年