(承前)
①一、普請衆数千人の内に馬十疋をき*1候て、使あるき*2につかふへし、其外の馬は在所*3へ可返事、
②一、ろし*4とをり候とて、大石もちにハ何たるものもかたよる*5へき事、
③一、下〻酒にゑい*6、くちからかひ*7有之といふともとらへ*8可出之*9、若のかし*10候ハヽ、其しう*11曲事たるへき事、
④一、普請衆在〻*12にをいて非分之儀有之ハ、一銭切たるへき事、
右条〻若違背の輩あらハ可処罪過*13、其者*14見のがし候ハヽ其しう曲事たるへき者也、
天正十四年二月十五日 (朱印)
一柳伊豆守とのへ*15
(三、1853号)(書き下し文)①一、普請衆数千人うちに馬十疋置き候て、使・歩に使うべし、そのほかの馬は在所へ返すべきこと、
②一、路次通り候とて、大石持ちには何たる者も偏るべきこと、
③一、下〻酒に酔い、口揶揄いこれあるというとも、捕らえこれを出すべし、もし逃しそうらわば、その主曲事たるべきこと、
④一、普請衆在〻において非分の儀これあらば、一銭切たるべきこと、
右の条〻もし違背の輩あらば罪過に処すべし、その者見逃しそうらわばその主曲事たるべきものなり、(大意)①一、普請衆数千人につきに馬十疋置き、連絡用に使うこと。そのほかの馬は国許へ返すこと。
②一、道を通るといっても、大石を運ぶ場合は道の一方へよけ道を空けること。
③一、下々の者が酒に酔い、口論や喧嘩になっても捕らえてるように。もし逃げられた場合は、主人がその責めを負うこと。
④一、普請衆が近郷の村々で不届きな行いをしたなら斬罪に処すこと。
右の条〻に違背する者がいたら処罰するように。該当者を見逃した場合その主人の責任とする。
①から、当初馬を連れてきた百姓たちが多かったことがわかる。連絡用として数千人あたり十頭に限り、残りは国許へ返させるよう命じている。馬を連れて来られる者といえばかなり有力な者たちであろう。ついでながら「在所」には「村々」の意味があり、そう解釈すると大坂近郷の村々から勝手に連れ出した馬を持ち主に返せという意味になる。そうした場合「返すべきこと」では穏当にすぎる。
③では、大坂に集められた人足たちが酒に酔って喧嘩をしていた様子がうかがえる。ただしその場で切り捨てたりせずに捕縛して然るべき所へ出せと命じている。この「捕縛して」という方針は秀吉の触れによく見られるもので、自力救済の否定と見ることもできる。また逃亡した場合などは「その主人」の責任とした。田畠を荒らした場合は郷村全体に、逃亡した「下々」の者たちの行為は「その主」にその責めを負わせることから、彼らは対等な金銭的雇傭関係ではなく売買の対象となる人格的隷属関係にあった可能性がある。この「主」がどのような立場なのか、「下々」とあるので被官百姓などを連れた有力百姓や、口入屋のように雇傭を斡旋する業者か、あるいは持ち場を請け負う単なる監督的な棟梁か。ともかく「普請衆」には「下々」と「その主」と呼ばれる階層に分かれていたことだけは確かである。
④は人足たちが近郷の村々に迷惑行為を働いていたことがうかがえる。前回見たように強引に宿を借りる者や家主に反抗する者などもいた。そうした「腕次第」の風潮を止めようとした秀吉の意図に反して、実際には「実力」行使がいまだ支配する社会だったことが読み取れる文書である。
「一銭切」については信長がはじめたする説明が事典類には見られる*16。史料編纂所の「古文書フルテキストデータベース」で検索すると下表のような結果となる。
Table. 一銭切
最古のものは近江国浅井郡大浦下庄に出された制札で、応仁・文明の乱直後のことである。上表を見る限り「盗みを働いた者は一銭切とする」というケースはこの大浦宛の制札のみでほとんどは朝鮮出兵時の軍律、残る直江兼続発給のものも禁制で実質的には軍律である。「日葡辞書」にも立項されていない。本ブログでは「斬罪に処する」程度に留めておいた*17。
*1:置き
*2:「使」も「歩」も使い走りの意
*3:国許
*4:路次
*5:偏る、片寄る。道の片側によること
*6:酔い
*7:「日葡辞書」99頁に「Caracai」で「喧嘩、口論」とある
*8:捕らえ
*9:生きたまま捕縛する
*10:逃し
*11:主。上掲日葡辞書には「主人」や「主君」とあり「下人」や「被官」など隷属農民を抱える土豪クラスの可能性をうかがわせる
*12:郷村、具体的には大坂近郷
*13:処罰する
*14:違背した輩
*15:直末
*16:新井白石『読史余論』は秀吉がはじめたとする。17世紀後半から18世紀前半にかけて「一銭切」はすでに死語と化していたらしい
*17:斬罪した頸の形が一文銭にみえるからという説明もある