猶以何かと申候者*1、此方へ可承*2候、何様*3之儀も自我等不申候、不可有同心*4候、此外なし、
其在所*5へ被遣候御下知御朱印之事*6、可被相改*7之儀者、曽以*8無之候、可有其意得候、誰々何かと申候共、不可有許容候、恐〻謹言、
木藤
三月十一日*9 秀吉(花押)
山城
賀茂惣中*10
『秀吉文書集』一、879号、280頁(書き下し文)その在所へ遣わされ候御下知・御朱印のこと、相改めらるるべきの儀は、かつてもってこれなく候、その意を得あるべく候、誰々何かと申し候とも、許容あるべからず候、恐〻謹言、なおもって何かと申し候者、この方へ承るべく候、何様の儀も我等より申さず候、同心あるべからず候、この外なし、(大意)賀茂六郷へ下された徳政を免除するという信長様のご命令・御朱印の趣旨を、お改めになるなどということは決してあり得ません。その旨よくご承知おきください。何処の誰がなんと言おうと認められません。謹んで申し上げました。重ねて申し上げます。なにかと難癖をいう者はこちらで話を承ります。こちらからは一切申しませんので、同意されぬようにしてください。以上の通りです。
Fig.1 山城国愛宕郡賀茂六郷概略図
Fig.2 山城国愛宕郡賀茂六郷地形図
元亀1年10月4日、京都周辺で徳政を求める一揆が起こり室町幕府は徳政令を出した。しかし個別の寺社などにはこれを適用しない「徳政免除」という「特権」を与える一貫しない態度をとった。織田信長もこれに歩調を合わせ賀茂六郷の債権者に対して「徳政免除」の下知や朱印状を発するものの、徳政を求める一揆も頻発したので、免除を徹底するよう再三にわたり促している。秀吉は信長の「取次」として、直接書状を発した。これが本文書である。
この書状は「誰々何かと申し候とも、許容あるべからず候」、「何様の儀も我等より申さず候、同心あるべからず候」と債権者たちに秀吉がくどくどと釘を刺しているように、徳政を求める一揆にうっかり同意してしまいかねないさまを物語っている。同意してしまえば信長の朱印状は反故となり、その権威は地に落ちる。秀吉は在地のこうした現状に対し「何かと申し候者、この方へ承るべく候」とあるように、一揆勢と秀吉が直接相対するように書き送り、権威の失墜を防ぐべく奔走したのである。
裏を返すと一揆勢は債権者たちが妥協してしまいかねないほどの「交渉力」を獲得しつつあったということになる。こうした在地の状況と秀吉の焦りが滲み出ている書状といえよう。
*1:徳政を要求する者
*2:引き請ける、話を聞く
*3:ナニヨウ、どのようなこと。ここでは徳政を認めること
*4:同意すること
*5:山城国愛宕郡賀茂六郷、図参照
*6:織田信長の下知、朱印状。元亀1年11月日織田信長朱印状写、奥野文書集262号。同11月25日木下秀吉副状、秀吉文書集34号。元亀3年4月日織田信長朱印状写、奥野319号<当郷は徳政免許であるにもかかわらず、一揆を構え徳政を催促する者があとを絶たないのは言語道断である。譴責使を派遣し取り立てよ。なお秀吉に命じている>
*7:様を変える、趣旨を変更する
*8:カツテモッテ、まったく・・・ない
*9:元亀2~4年カ
*10:上掲信長朱印状写の充所が「賀茂銭主・同惣中」とあることから、「賀茂惣中」は「銭主」、つまり債権者となり得る経済力を持つものと思われる。もちろん「惣中」を構成するからすなわち財力もある、というほど単純ではないだろうが