去五日書状安国寺*1住*2進之旨、加披見候、然者其方久留米*3へ相移、先勢至南関*4着陣之処、城中入相之由尤候、①先書*5如被仰遣候、陸奥守*6背(闕字)御朱印旨、国侍ニ知行不相渡候哉、如此仕合、無是非次第候、就其条〻安国寺かたへ被仰遣候間、得其意、②彼国侍共申分聞届、随其*7可被及行*8候、毛利右馬頭*9も其方一左右次第、立花*10迄出馬可然候、黒田勘解由*11・森壱岐守*12も其面罷越、可遂相談之由、被仰遣候*13、猶追〻住*14進待覚*15候也、
九月十九日*16 (花押)
小早川左衛門佐とのへ*17
(三、2304号)(書き下し文)去る五日の書状安国寺注進の旨、披見を加え候、しからばその方久留米へ相移り、先勢南関にいたり着陣のところ、城中入相うの由もっともに候、先書仰せ遣わされ候ごとく、①陸奥守御朱印の旨に背き、国侍に知行相渡さず候や、かくのごとくの仕合わせ、是非なき次第に候、それについて条〻安国寺方ヘ仰せ遣わされ候あいだ、その意を得、②彼の国侍ども申し分聞き届け、それにしたがいてだてに及ばるべく候、毛利右馬頭もその方一左右次第、立花まで出馬しかるべく候、黒田勘解由・森壱岐守もそのおもてへ罷り越し、相談を遂ぐべきの由、仰せ遣わされ候、なおおいおい注進待ち覚え候なり、(大意)今月5日付の書状、安国寺恵瓊が持参し拝読しました。そなたが久留米城へ移り、先陣が南関城に着陣したところ、城内で恵瓊と出会ったとのこと、もっともなことだと思います。9月7日の判物で申しましたように、①成政が秀吉の命に背いて肥後国人たちに知行地を渡さなかったのでしょうか、このような深刻な事態にいたり、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。その件についてこまごまと恵瓊に託していますのでお聞き下さい。②肥後国人たちの言い分をよく聞き、それにより軍事行動に及ぶべきかを判断して下さい。輝元もそなたの下知次第立花城まで進む手筈になっています。孝高・吉成へもそなたのもとへ出向き、相談しなさいと伝えております。なお、後日の報告をお待ちしています。
Fig.1 筑前・筑後・肥後国周辺図
Fig.2 肥後国南関城(大津山城)周辺図
①は、9月7日隆景宛判物に「陸奥守、国衆または百姓以下へ当たり様悪しく候や」(成政が秀吉の命に背いて、国衆や百姓たちへ悪し様に接したせいだろうか)*18と記したように、成政が国衆たちに知行地を渡さなかった=上前をはねた・ピンハネしたため今日の不始末を招いてしまったのだと繰り返している。本文書も「候や」と断定していない点は踏まえておきたい。
繰り返しになるが、成政の国衆(国人)や百姓への対応が「悪かった」=検地を強行したことが一揆の原因であり、それこそが成政の越度であるとする。
②では国人たちの主張に耳を傾けるように述べており、それにより軍事的に制圧してしまうハード・ランディングか、懐柔するソフト・ランディングかを判断せよとふたつのプランを提示している。ハードランディングはチャレンジング(やりがいのある)であるかもしれないが、チャレンジング(困難な・茨の道)でもある。