当川*1渡之儀、昼夜無由断可渡候、然者兵粮米可出遣候之条、得其意可精入候、猶佐藤主計*2・春日小左衛門尉*3可申候也、
三月廿二日*4 秀吉(朱印)
郷戸*5
呂久*6
しつけ*7
喜田*8
『秀吉文書二』981号、12頁(書き下し文)当川渡之儀、昼夜無由断可渡候、然者兵粮米可出遣候之条、得其意可精入候、猶佐藤主計・春日小左衛門尉可申候也、(大意)木曽川の渡河について、昼夜を分かたず渡すようにしなさい。兵粮米を遣わすので精を入れて励むように。なお詳細は佐藤主計・春日小左衛門尉が口頭で伝える。
3月6日伊勢・尾張を領国とする信雄は秀吉に通じていたとして重臣を自害させた*9。すでに2月徳川家康家臣酒井重忠が信雄のもとを訪れており、密約がなっていたのかもしれない*10。翌7日付長宗我部元親弟の香宗我部親泰宛の書状で信雄は「羽柴天下の儀、ほしいままの働き是非に及ばず候」*11と秀吉が「天下人」同然に振る舞っていることを難じている。ただし信雄による秀吉糾弾の文面であることから、「天下の儀ほしいままの働き」との文言からすぐさま額面取り秀吉が天下人のように振る舞っていたと解釈するのは憚られる。
一方の秀吉は信雄と決裂し、家康との緊張が高まったこのころから花押を据えた判物と、本文書のように朱の印判を用いた朱印状とを受給人の身分の高下に応じて使い分けるようになる。礼の厚薄をつけることで天下人たらんとしたのだろうか。そういう意味では信雄の主張もあながち被害妄想と言い切れない。
充所は長良川・久瀬川(揖斐川)河畔の船着き場四箇所である。
Fig.1 美濃国郷戸・呂久・尻毛・喜田周辺図
Fig.2 天保美濃国絵図(国立公文書館蔵)
彼らを木曽川の船渡しに動員した。自弁であることが多い軍事動員だが本文書では反対給付として兵粮米を支給すると約している。
*1:木曽川、木曽川は美濃と織田信雄の領国尾張との国境
*2:直清。秀吉の腰母衣衆、のち馬廻衆組頭
*3:未詳
*4:天正12年
*5:美濃国方県郡河渡(ゴウド)、図1、2参照
*6:同国大野郡
*7:同国方県郡尻毛(シッケ)
*8:同上木田
*9:『大日本史料』第11編5巻、733頁、同日条 https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1105/0733?m=all&s=0733&n=20
*10:この間の事情は渡邊大門『清須会議』朝日新書、2020年参照
*11:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1105/0798?m=all&s=0733&n=20