去八日御札、今十一日令拝見候、仍此面儀弥無異*4儀候、併一昨日九日、池田勝入*5・森武蔵*6三州*7境目相動、岩崎城*8責崩、首数多討捕、得大利*9候処、即岡崎*10面へ深々与相動、及一戦失勝利*11候、定*12其辺へ雑説*13共*14可申候、爰元無差儀*15候、殊ニ勢州松賀島*16令落去、彼面之人数、我等弟始美濃守*17・筒井順慶、悉此表へ着陣候、於様子者不可有御気遣候、尚期来音*18節候、恐〻謹言、卯月十一日*19 秀吉(花押影)木曽伊与守殿*20参 御返報『秀吉文書集二』1031号、26頁(書き下し文)去る八日の御札、今十一日拝見せしめ候、よってこの面の儀いよいよ無異の儀に候、しかし一昨日九日、池田勝入・森武蔵三州境目へ相動き、岩崎城責め崩し、首あまた討ち捕り、大利を得候ところ、すなわち岡崎面へ深々と相動き、一戦に及び勝利を失い候、さだめしそのあたりへ雑説ども申すべく候、ここもと差したる儀なく候、ことに勢州松賀島落去せしめ、彼の面の人数、我等弟美濃守・筒井順慶をはじめ、ことごとくこの表へ着陣候、様子においてはお気遣あるべからず候、なお来音の節を期し候、恐〻謹言、なお根城と号し、尾口・楽田要害、丈夫に普請申し付け候、(大意)去る八日付のお手紙本日十一日拝見いたしました。こちらは平穏無事にすごしています。とはいうものの、一昨日九日に池田恒興・森長可両名が三河国境へ進軍し、岩崎城を攻め落とし、首を数多討ち取り大勝利しました。そのまま岡崎まで深々と進み一戦に及んだものの勝利を失いました。きっとそちらでも今回の負け戦についてあれこれと風評をお聞き及びのことと存じます。私の方はさほどではありませんが伊勢松賀島城を落とし、伊勢方面には秀長や筒井順慶などが着陣しています。こちらの様子はお気遣い無用です。またお便りの際にでも。謹んで申し上げました。なお、根城として尾口・楽田に要害をしっかり築くように命じました。
Fig.1 尾張国尾口・楽田・岩崎周辺図
Fig.2 伊勢国松賀島周辺図
本文書では池田恒興・森長可が一敗地にまみれたとはあるものの、ことさら「こちらは無事です」と強調していて、彼らが討ち死にしたことを曖昧に誤魔化している。しかし同日付の同じく木曽義昌に充てた書状写には「池田入道・森武蔵…不慮の仕合わせ*21にて、池田父子*22・森武蔵勝利を失い、是非に及ばず候」*23とあり討ち死にしたことを明らかにしている。またやはり同日付池田恒興家臣の土蔵*24四郎兵衛尉宛書状でも「このたび勝入父子是非なき次第に候、我々一人力落とし、おのおの心中同前に候」*25と家臣とともに嘆き悲しむ様子を書き送っていて、本文書とは好対照をなしている。
本文書でおもしろいのは下線部である。「悪事千里を走る」というが人の噂、とりわけ悪い噂はおもしろおかしく尾ひれがついて瞬く間に拡がりやすい。本能寺の変直後も『多聞院日記』や『家忠日記』に見られるように真偽不確かな噂が飛び交った。敗北という「悪い知らせ」がおもしろおかしく脚色されて義昌に伝わっているだろうと秀吉は頭を抱えていたらしい。
*1:「根本の城」=拠点↔出城
*2:尾張国丹羽郡小口、図1参照
*3:同国同郡、図1参照
*4:ブイ、無事であること
*5:恒興
*6:長可、恒興の女婿
*7:三河国
*8:同国愛知郡、図1参照
*9:「利」は戦などで勝つこと、優勢であること
*10:三河国家康居城
*11:「勝利を失う」、敗北すること
*12:サダメシ、おそらく
*13:根拠のない噂、風説
*14:複数を表す接尾辞、e.g.「子共」=子たち。「雑説共」で様々な憶説や噂
*15:サシタル儀、これといったこと
*16:伊勢国一志郡松ヶ島城、図2参照
*17:羽柴秀長
*18:ライイン、便り
*19:天正12年
*20:義昌、信濃国木曽の国人。武田信玄に降るも勝頼の代で信長に内通。本能寺の変後家康より信濃にて本領安堵、新恩給与されるが、小牧長久手の戦い前に羽柴方に与する
*21:「仕合」は「めぐり合わせ」、「事の次第」
*22:恒興・元助
*23:1032号、27頁
*24:トクラ
*25:1033号、27頁