日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正19年3月12日井戸村与六宛八郎右衛門作職書上(抄出)

第1巻をあらかた読み終えたので、口直しに井戸村家文書を読んでみたい。なお2020年に刊行された『井戸村家文書第一』*1では、差出人名を文書名に含める古文書学の原則にのっとった、上述のように地味な(?)表題に改められていた。

  

 

 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六時代」

 

被成御扶持候作職書付上申候事

い村川原西庄境北は春日               おころ

 七段小*2                彦三郎(略押)*3

かいそへ五反小□内

 壱畝*4                 同

立岩川原、但孫左衛門渡り*5

 小    但与六様徳分*6共ニ*7御ふち  同

同西のせ河かけ*8共ニ

 壱段半*9  但与六様御ふち       同

小門前

 壱反   同地一職*10共ニ御ふち     同

   以上*11

(中略)

右、書上申候作職被成御扶持之処実正明白也、自然於子〻孫〻も売買仕候ハヽ、可被成御糺明候、随而右之書上外ニかくし置、又ハうり申儀候ハヽ、被聞召出次第ニ可被召上候、猶以御検地之上めん/\名付仕、指出*12仕候共、不寄何時被召上候共、其時一言之子細申間敷候、仍為後日之状*13如件、

 天正拾九年             此使

    三月十二日           八郎右衛門(花押)*14

井戸村与六様まいる*15

 

上掲書52号、61~70頁
 
(書き下し文)
 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六時代」

 

ご扶持なされ候作職書付上げ申し候こと

い村川原西庄境、北は春日                おころ

 七段小                   彦三郎(略押)

かいそへ五反小□のうち

 壱畝                    同

立岩川原、ただし孫左衛門渡り

 小    ただし与六様徳分ともにご扶持   同

同じく西のせ河欠ともに

 壱段半  ただし与六様ご扶持        同

小門前

 壱反   同地一職ともにご扶持       同

   以上

(中略)

右、書き上げ申し候作職ご扶持なさるるのところ実正明白なり、自然子〻孫〻においても売買つかまつりそうらわば、ご糺明なさるべく候、したがって右の書上のほかに隠し置き、または売り申す儀そうらわば、聞こし召し出だされ次第に召し上げらるべく候、なおもって御検地の上面々名付つかまつり、指し出しつかまつり候とも、何時によらず召し上げられ候とも、その時一言の子細申すまじく候、よって後日のため状くだんのごとし、

 

(書式)

 

本文書は検地帳によく似た書式を取っている。公的な検地帳に対して、井戸村家の私的な裏帳簿、より正確には作職保持者ごとに「名寄せ」されているので「裏名寄帳」とでも呼ぶべきかもしれない。書式を見てみよう。

 

い村川原西庄境、北は春日                 おころ

 七段小*16                   彦三郎(略押)

 

 

田畠の所在①

  面積②    (但書)③        作職保持者④(署名)⑤

 

 おおむね右の五要素からなるが、単なる記号のようなの略押も意思表示したことを示す重要な証拠である。

 

ところで「おころ」は名字なのか地名なのか、地名に由来する名字なのか気になるところだが、アームチェア・ディテクティブを気取って史料集を眺めているだけではわからない。現地踏査が不可欠である点においても本記事は不十分である。

 

(大意)
 

(端裏書)

「天正十九年         井戸村与六の代」

 

与六様より与えられた作職の一覧表を提出いたします

(中略)

右の通り書きあげました作職、与六様から与えられたことに間違いございません。子々孫々の代で売買した場合はぜひきびしくお取り調べください。また、右のほかに田畠を隠し持っていたり、あるいは売り飛ばしたとお耳に入ったさいはすぐさま土地をお取り上げください。なお秀吉様の検地で名請けされたとしても、その検地帳を提出したあと土地を没収されたさいにはひと言の申し開きもいたしません。以上後日のために一筆したためました。

 

 

 

 Fig1. 八郎右衛門の花押と彦三郎の略押

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       『井戸村家文書第一』巻末「花押一覧」より作成(八木書店、2020年)

 

 Fig.2 近江国坂田郡箕浦周辺図

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                   『日本歴史地名大系』滋賀県より作成

 

在地の有力者井戸村与六から「御扶持」された「作職」であることを再確認させ、「御検地」つまり秀吉の検地によって名請人となったものの、ご恩は末代まで忘れません、いつでもお返ししますと彦三郎らが誓約した書面である。③の但書でもくどくどと「御扶持」と記されており、そこに家父長的温情主義を読み取ることはたやすいであろう。

 

また下線部の「右の書上のほかに隠し置き」とあるのは、与六より与えられた土地ではなく、彦三郎らが自力で開発した田畠を含意する可能性もある。それも含めて与六の支配下にあるという意味だろうか。とすれば、与六の実弟である八郎右衛門はかなりの深謀遠慮の持ち主である。

 

 与六は秀吉に対しバックラッシュを試みたわけだが、のちにこの書面をめぐって相論が起きている。そのあたりは秀吉の政策がヒエラルヒッシュな郷村の構造をどう変えていったのか、あるいはもともとパターナリスティックな郷村の解体という趨勢を嗅ぎ取った秀吉が現状追認的な政策に舵を切ったのかなどなど、とても興味深いが機会を改めたい。

 

 

*1:八木書店

*2:「小」は360歩=1反(段)の1/3で120歩とされるが「畝」もあるので300歩=1段の1/3の100歩かもしれない

*3:図1のように筆軸に沿って円を描いたきわめて略式の署名で八郎右衛門のものと比較すると著しく見劣りする

*4:「畝」は通常10分の1反、30歩

*5:孫左衛門は未詳、いまは彼に耕作権が移動している

*6:与六が受け取る「作徳」=小作料

*7:小作料を免ずること

*8:「川欠」、河川が決壊して耕作できない田畠

*9:「半」は1反*1/2、180歩か150歩。なお「大」は1反*2/3=240歩か200歩

*10:作職以外の「名主職」などとともに

*11:彦三郎分は右に書き上げたもので全部

*12:検地帳は領主に提出されるもの(武家文書)村で長く保管されるもの(地方文書)の二系統ある。今日われわれが目にするものの多くは後者である

*13:状は文書の形態で「冊子もの」に対して「一紙もの」を指すが1枚とは限らない

*14:図1参照

*15:近江国坂田郡箕浦、図2参照

*16:7段小の面積は、360歩=1反のとき、おおむね90メートル四方の正方形より広く、100メートル四方のそれより狭い。1反=300歩なら80メートル四方より広く90メートル四方より狭い