日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

年未詳(天正5~6年カ)12月6日鵤庄惣中宛羽柴秀吉判物

 

 

当庄之事、任(闕字)御朱印*1之旨、諸事可令馳走*2候、若下〻*3非分之族在之者、可加成敗者也、

                           筑前守

  十二月六日*4                     秀吉(花押)

    鵤庄惣中*5

 

『秀吉文書集一』937号、297頁

 

(書き下し文)

 

当庄のこと、御朱印の旨に任せ、諸事馳走せしむべく候、もし下〻非分のやからこれあらば、成敗を加うべきものなり、

 

(大意)

 

 鵤庄の支配について、信長様の朱印状の趣旨にしたがい、万事奔走しなさい。もし惣中以下の百姓で年貢を納めないなど不届き者がいた場合は罪科に処すものである。

 

 

本ブログでは断りなしに「庄園」と「荘園」を併用してきたが、これは手書きだとほぼ同一に見えることに由来する*6。「」(バカリ)と「」(ト)も同様に本来は別字であるが見分けがたいため史料集によっては「今寝付いたばかりなのに」の「ばかり」が「計」ではなく「斗」で翻刻される場合もある*7活字、とりわけ明朝体にすっかり毒された現在ではありえないかもしれないが、たとえば「糸」へんの下三画を、左から書くか真ん中から書くか書きやすいほうを選べた柔軟で、頭の柔らかい、融通の利く時代もあったのだ。

  

Fig.1 「荘」と「庄」

f:id:x4090x:20200723220908j:plain

               児玉幸多編『くずし字用例辞典』近藤出版社/東京堂出版

Fig.2 「計」と「斗」

 

f:id:x4090x:20200724175623j:plain

                              op. cit.

 

(註)
本記事執筆途中で「計」と「斗」について、山梨県立博物館古文書講座「災害に関する古文書」の解説に接したのでそちらも参照されたい。

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/20200725komonjo_at_home.pdf

 35~36コマ目 (2020年7月25日)

 

 Fig.3 播磨国揖保郡鵤庄周辺図

   

f:id:x4090x:20200725175517p:plain

                   『日本歴史地名大系』兵庫県より作成

 鵤庄は「鵤庄引付」*8と呼ばれる記録から、荘民の日常生活をくわしく知ることができる。興味深い例をいくつか挙げてみたい。

 

応永25年(1418)9月15日訴えを認められなかった名主・百姓たちは一斉に逃散した。しかし実態は以下のようであったという。

 

 

さりながら逃散のさま、面(オモテ)をばかこゐ(囲い)て家内には住す、

195頁
 
しかしながら逃散とはいうものの実際には家の出入口を覆い、そこで暮らしていた。
 

 

この「面をば囲ゐて」は物理的障害物でバリケードを築いて、家への侵入を防ぐいわゆる「ロックダウン」のようなことではない。「篠を引く」といわれるように笹や柴で家を覆う象徴的、宗教的、呪術的行為としての囲いで、「公」と「私」の領域を区別し可視化する行為であった。「篠の引かれた」家の中はアジールとみなされていたというわけである*9

 

永正3年(1506)には庄内宿村の左衛門九郎が帷子をなくしたちょうどそのとき、世間奉公の女性が宿村にある風呂に入りに来ていたので、彼女を捕らえて左衛門九郎が拷問したという*10。理由は記されていないが、偶然そこにいたので「あいつが盗んだに違いない」と考えたのだろう。左衛門九郎はこの拷問の科により惣庄の検断を受け、家財を没収されてしまった

 

また永正11年(1514)の大干魃では、隣の小宅庄民が分水の慣行を破って水を引いた上、鵤庄の水番を捕らえるという事件が起きた。これに対し鵤庄は斑鳩寺*11の鐘を鳴らして*12総勢1200名を集め現場へ押しかけたという*13。もちろん武装していただろうし、催した人数からもはや合戦というべき状況である。

 

 さて、天正2年法隆寺宛に信長が三箇条からなる朱印状を発給した。前二箇条は通常の禁制であるが、三箇条目は領地争いをやめ、従来通りにせよというもので本文書中の「御朱印の旨」はこれを指すものと思われる。

 

法隆寺にとって鵤庄からの収入は貴重だった。そこで信長の朱印状により、長い歴史を持つ荘民の抵抗(レジスタンス)や実力(ゲヴァルト)を押さえ込もうとしたのだろう。中国*14攻めの途上にあった秀吉が、在地の有力者たちに荘務を徹底するよう促した、本文書はそう位置づけられるであろう。

 

 

*1:天正2年1月日大和法隆寺宛織田信長朱印状写カ、奥野440号

*2:馬を走らせること、奔走すること

*3:鵤庄では少なくとも、法隆寺から現地駐在を命じられた東西の「政所」、「寺庵」、「公文」、「名主」(ミョウシュ)、「百姓」などの階層に分かれていた。「鵤庄引付」『太子町史 第三巻』など

*4:天正5~6年カ

*5:法隆寺領イカルガノショウ、播磨国揖保郡、図3参照

*6:図1参照。検索するとき「庄」と「荘」はまったく別のものとして扱われて手間がかかる

*7:図2

*8:兵庫県『太子町史 第三巻』以下同書の頁数のみ記す

*9:勝俣鎮夫『一揆』岩波新書、1982年

*10:208頁

*11:大和国法隆寺の支院

*12:「金打」=キンチョウ、一味神水するとき、つまり一揆を結ぶときの儀式。除虫菊の企業とは無関係

*13:214頁

*14:毛利氏の勢力範囲。日本で「中国」といった場合、①国の中央。②「近国」「遠国」に対しての「中国」、駿河など。③律令制で国を「大上中下」の四等級にわけた場合の第三位。④山陽道と山陰道を合わせた現在の中国地方に近い意味の三つがある。「唐」の意味ではない。なお「中部地方」という呼称は19世紀最後の年から20世紀にかけて導入された「より人工的」な地名である。「関東及び奥羽と近畿の中間の地方は別に適当なる名称なきが故(ゆえ)に姑(しばら)く本州中部地方の名を用いたり」(1904年「小学校高等科用国定教科書小学地理の編纂趣意書」)とかなり安直である。「姑く」つまり世を忍ぶ仮の姿が定着してしまったわけである。日常的には東海・東山・北陸が用いられることも多く、農林水産省では長野県と山梨県を「東山地方」と呼ぶ