天正11年8月1日、秀吉は家臣に充てて知行(領知)充行状、知行目録を一斉に発給した。『豊臣秀吉文書集』一の748号から795号までのほとんどがそれに相当するところから見ても、その規模がうかがえる。知行充行状は家臣に土地を永代にわたって与えるという証文であり、とくに所領が多くの村々にわたる際は「目録別紙」として知行目録が副えられる。ここでは浅野長吉(のちの長政)宛のものを見ておきたい。
[史料1]
江州下甲賀*1九千七拾石、同栗本郡*2内壱万千弐百五拾六石、都合弐万三百石事*3、目録別紙*4相副、令扶助畢、永代全可領知之状如件、
天正拾壱
八月一日 秀吉(花押)
浅野弥兵衛尉*5殿
『秀吉文書』一、748号、239頁[史料2]江州①下甲賀所〻*6知行目録事一、九百弐拾六石六斗 菩提寺一、弐千五拾八石 いしべ*7(中略)一、(ア)三百石 正福寺(中略)同国栗本郡内所〻知行目録②田上郷之内*9一、六百五拾石五斗 里村一、六百五拾六石弐斗三升 もり村*10(中略)②合四千三百三拾壱石五斗一、③千五百拾壱石四斗 勢田郷一、③五百六拾七石 南かさ((笠))(中略)③合六千九百弐十四石四斗④下甲賀正福寺 与力一、弐百八拾石 青木左京進都合*11弐万三百石天正拾壱年八月朔日 秀吉(花押)浅野弥兵衛尉殿同上書、749号、239~240頁(書き下し文)[史料1]
江州下甲賀九千七十石、同栗本郡のうち一万千二百五十六石、都合二万三百石のこと、目録別紙相副え、扶助せしめおわんぬ、永代まったく領知すべきの状くだんのごとし、
[史料2]
江州下甲賀ところどころ知行目録のこと一、九百二十六石六斗 菩提寺(中略)下甲賀正福寺 与力一、二百八十石 青木左京進(以下略)(大意)[史料1]近江国下甲賀に9,070石、同じく栗太郡に11,256石、計20,300石、別紙目録の通りに充行うものとする。永代にわたって領知しなさい。[史料2]近江国下甲賀所々に散在する知行地の目録一、926石6斗 菩提寺村(中略)一、下甲賀正福寺村の青木左京進を与力とし、左京進の所領280石を勘定に入れるものとする。(以下略)
史料2の目録にある地名を明治期の地図にプロットしてみたのが下図である。
Fig. 天正11年浅野長吉所領
一覧して気づくのは所領が一円的・空間的にまとまっていず、あちらこちらに点在していることである。われわれが現在地域別・国別などの領域を排他的に一色で塗りつぶす手法はあくまで近代的な発想にもとづくもので、歴史上すべての時代にそうした手法を持ち込むことが適切かどうかは十分に注意する必要がある。
次に史料2を一覧にしたのが下表である。
Table 天正1年8月1日浅野長吉所領一覧
史料2の①から④までは表の番号と同じである。柑子袋村のように1600石と百石単位のところもあれば、田村のように「升」単位まで記載するなど精粗の差が激しいが、それは措いておく。
問題は④の正福寺村である。およそ半世紀のちの寛永石高帳では正福寺の村高は668石余りで、本文書の580石と100石ほどの差である。したがって、この580石が天正11年における正福寺の村高と考えてよさそうである。甲賀郡中惣の構成メンバーである「五十三家」には村名を名字とする家が見られ、青木家もあるところから見て*12 正福寺村在住の土豪であろう。傍線部(ア)にあるように正福寺村300石がすでに①として計上されているので、まっさらな土地ではなく、青木を浅野長吉の「与力」とすることで領主つき、俗な言い方をすれば「紐付き」の土地を与えたと考えたい。
つまり天正11年8月1日、秀吉が浅野長吉に充て行った土地には、①から③までの排他的で近世的な土地領有権と、④の中世的な上級領主権(本家職・領家職のような)が混在していたのである。
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