今回はかなりの長文なのでごく一部のみの抄出とした。
御書*1謹而拝見仕候、
一、柴田*2与拙者間柄之儀、何与哉覧*3被及聞召、可被仰扱*4之旨、忝次第候、雖然右申合候誓紙血判*5之筈相違候得者、何角茂不入儀与存事、
一、上様*6御他界之刻、信孝様・三助様*7御名代之御諚候而就御座候、御主*8ニ事闕*9申条、何れを御主用可申与、四人宿老*10共、清須ニ而致談合*11、信忠様之御若君様*12ヲ御主ニ用、四人之宿老共トシテ*13守立*14可申与談合を究、清須*15ゟ岐阜*16江御供申、若君様を信孝様へ預ヶ申候事、
(中略)
十月十四日 筑前
川田彦右衛門*17殿
「一、503号、157~159頁」
(書き下し文)
御書謹しんで拝見仕り候、
一、柴田と拙者間柄の儀、なんとやらん聞し召し及ばれ、仰せ扱わらるべきの旨、かたじけなき次第に候、然りといえども右申し合わせ候誓紙血判のはず相違そうらえば、なにかとも入らざる儀と存ずること、
一、上様御他界のきざみ、信孝様・三助様御名代の御諚候て御座候につき、御主にことかき申すの条、いずれを御主に用い申すべきと、四人宿老ども、清須にて談合いたし、信忠様の御若君様を御主に用い、四人の宿老どもとして守り立て申すべきと談合を究め、清須より岐阜へ御供申し、若君様を信孝様へ預け申し候こと、
(大意)
信孝様からの書状、謹んで拝見いたしました。
一、柴田と私の間柄についていろいろとお聞き及びになり、仲裁に入るとのこと誠に有難い次第でございます。しかしながらこの件については起請文を取り交わしているはずでして、それに違えば相応の神罰を蒙りますのでご不要のこと存じます。
一、信長様御他界の後、信孝様・信雄様名代の決定について、盟主が不在であるとの点は、お二人のどちらを盟主にすべきかと四人の宿老が清須城で話し合い、信忠様の若君を盟主とし、宿老として戴くと決まりました。ですから清須から岐阜へお供して、若君様を信孝様にお預けいたしました。
上記文書を読む上で、『大日本史料』天正10年10月6日条*19、同18日条*20を参照する必要がある。18日、秀吉はさらなる長文の返書をしたためている*21が、その充所は岡本太郎左衛門とやはり信孝家臣の斎藤玄蕃允利堯である。信孝発給文書は見つけられなかったが、「仰せ扱い」=仲裁を依頼した結果であろう。
さて、まず文書は信孝本人ではなく、重臣に充てたものなので、信孝からの書も直状(本人の名前で発給される文書)ではなく奉書(臣下が上位者の意思を奉じて発給する文書)だったのかもしれない。
また下線部にあるように、勝家、長秀、恒興、秀吉の四名が「宿老」として織田政権の盟主=「御主」を三法師を戴く体制だったことも前回同様確認できる*22。
もちろん清洲会議の決定そのものへの異議申し立てではなく、「適切な」運営か否かという正当性をめぐる争いであった。それは勝家が堀秀政に充てて「天下御分国中静謐の評定もちろんに候ところ、清須已来の裁許は申すに及ばず、諸人の分別これあるべきこと」と自身の正当性を主張していることから明らかである。
いずれにしろ信長・信忠死後四ヶ月弱で、宿老である勝家と秀吉の対立が修復不能という局面に陥っており、織田政権=宿老体制崩壊はすでに時間の問題となっていたことだけはたしかである。
*1:相手の手紙、ここでは信孝よりの書
*3:ナントヤラン、いぶかしく思う気持ち「~だろうか」
*4:「噯」とも書く、中近世における紛争解決のための仲裁・調停のこと。信孝に「扱」を仰いだこと
*5:起請文
*7:信雄
*8:織田政権の盟主
*9:コトカキ
*10:羽柴・柴田・丹羽・池田
*12:三法師
*13:「シテ」は原文では合字、 http://komonjo.rokumeibunko.com/binran/img/shite.JPG
*17:幸田孝之、信孝の乳母の子
*18:岡本良勝、信孝取次衆の一人
*19:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1102/0677?m=all&s=0677&n=20
*20:https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1102/0775?m=all&s=0775
*21:513号
*22: