越後儀*1弥遂相談、①国切*2ニ於相澄者、執次*3之儀貴所へ可相定候、②越後存分*4相滞儀も在之者、秀吉出人数*5、急度申付*6、彼国之事者*7其方可被任覚悟*8候、為其如此候、恐〻謹言、
羽柴筑前守卯月廿八日*9
秀吉(花押)佐々内蔵助殿*10
「秀吉一、660号、211頁」(書き下し文)越後の儀いよいよ相談を遂げ、国切に相澄むにおいては、執次の儀貴所へ相定むべく候、越後存分相滞る儀もこれあらば、秀吉人数を出し、急度申し付け、彼の国のことはその方覚悟に任さるべく候、そのためかくのごとくに候、恐〻謹言、
(大意)越後の上杉側との領地確定についてこちらで相談し、国分が無事に済むようでしたら貴殿が取次をなさると、あるいは越後との和議が思うように進まないのであれば、秀吉が兵を出し、平らげ、そなたの覚悟次第と致します。念のため以上の通りです。謹んで申し上げました。
本文書は、柴田勝家亡き後上杉氏との境界確定の和議について佐々成政へ指示したもので、上杉氏との和議、すなわち「国切」=国分が滞りなく進んだ場合は成政が上杉氏と秀吉=織田政権との取次を担い(①)、またなかなか交渉が捗らない場合は秀吉が出兵し平らげ、成政に越後をまかせるという(②)ふたつの部分に分けられる。
もちろん、②の和議が思うように進まない場合に秀吉が軍勢を出して上杉氏を制圧するという案が現実的かどうかは別の問題であるし、むしろここは充所の成政に圧力を与える含意を読み取るのが筋であろう。
そもそもこの文書は成政に充てたものであり、②の「秀吉人数を出し」という武力を背景にした威圧は上杉側に伝わるものではない。したがってこの文言は成政への威圧と解するのが妥当であろう。
ただし翌日秀吉は、上杉景勝重臣の直江兼続・狩野秀治に充てて、加賀・能登・越中を平らげたと述べたうえで、柴田勝家攻略時にこちらに味方するとの誓紙を交わしているがそれを反故にしたと詰め寄ってもいる*11。秀吉にとって上杉はいまだ「まつろわぬ」存在だったこともまた事実であり、成政は「執次」として越後攻略を一身に背負わされたというところではないだろうか。
さて本記事で「織田政権」としたのは、冒頭の「相談」という文言に「織田信雄との相談」の可能性があり、かつ翌5月21日に信雄が前田玄以を京都奉行職に任じているためである*12。過去にも述べたが、玄以の手に余る問題は秀吉に委ねよとしている点で、形式的にはいまだ信雄による織田政権の存在感は大きいものの、秀吉が事実上政権の簒奪を実現しつつある様子もうかがえる。
<参考史料>
一、京都奉行職事申付之訖、然上公事篇其外儀、以其方覚悟*17難落著(着)仕儀有之者、相尋筑前守*18何も彼次第可相極事、
(中略)
右条々可成其意候也、
天正拾壱年
五月廿一日
信雄 判
玄以*19
「大日本史料」天正11年5月21日条
(書き下し文)
一、京都奉行職のことこれを申し付けおわんぬ、しかるうえ公事篇そのほかの儀、その方覚悟をもって落着仕りがたき儀これあらば、筑前守に相尋ね、いずれも彼次第相極むべきこと、
(中略)
右条々その意をなすべく候なり、