前回の記事で以下のように述べた。
ただし翌日秀吉は、上杉景勝重臣の直江兼続・狩野秀治に充てて、加賀・能登・越中を平らげたと述べたうえで、柴田勝家攻略時にこちらに味方するとの誓紙を交わしているがそれを反故にしたと詰め寄ってもいる
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ここでは三ヶ国を平定した旨述べている部分を掲出してみたい。
然者賀州・能州・越前属一篇候之条、国之置目*1等為可申付、至金沢城令逗留候、
「秀吉一、661号、211頁」
(書き下し)
しからば賀州・能州・越前一篇に属し候の条、国の置目など申し付くべきため、金沢城に至り逗留せしめ候、
(大意)
加賀・能登・越前の三ヶ国を平らげたので、国の法令などを申し付けるため、金沢城に逗留していました。
この「置目を申し付ける」との文言は空手形ではなく、実際に秀吉は三ヶ条からなる禁制を越前・加賀の二ヶ国へ一斉に下している。
秀吉軍の軍勢による乱妨狼藉や放火の禁止による治安の維持と、百姓を還住させ、村落の再生産基盤を固めるのが目的と見られる。すなわち、検地などによる在地の直接的把握には至っていないものの、その前段階となる治安維持=環境の整備と百姓還住=労働力確保には着手していた点において、あながち虚言による牽制とするわけにはいかない。
秀吉は5月になると、賀茂社・園城寺などの寺社、宮部継潤ら家臣、さらに権大納言勧修寺晴豊にあてて「北国表の儀、平均に申し付け」たと書き送っており、また小早川隆景には5月15日付で詳細かつ長大な返書をしたためている*2。この隆景宛書状については次回読むことにしたい。