日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元亀元年11月20日相楽庄蔵方中宛木下秀吉書状

今度徳政*1之儀ニ付て、当庄*2之事守護不入*3之段申上、為御本所*4被仰付候処ニ、今更*5不能承引由候、近比*6不相届*7儀共候、所詮*8於背御本所者、堅可有御成敗候、光浄院*9折紙を相調進之候、謹言、

                 木下藤吉郎

   十一月廿日*10            秀吉(花押)

   相楽庄

    蔵方*11

                 「豊臣秀吉文書集 一」32号文書、12頁

 

(書き下し文)

 

このたび徳政の儀について、当庄のこと守護不入の段申し上げ、御本所として仰せ付けられ候ところに、今更承引あたわざるよし候、近比あい届かざる儀とも候、所詮御本所にそむくにおいては、堅く御成敗あるべく候、光浄院折紙をあいととのえ、これをまいらせ候、謹言、

 

(大意)

 

今回の徳政令につき、当庄は守護不入の地である幕府へ申し上げ、荘園領主である御本所であると仰せになったところ、急に承服しかねるとのこと。最近命に背くことといい、本所の命に背く場合は厳しく追及することとする。光証院へもその旨したためた折紙を送っている。

 

 

Fig. 山城国相楽郡相楽庄と大和興福地周辺図 

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「日本歴史地名大系」京都府より作成 

「蔵方」、つまり質取主への書状である。今回の徳政について、織田政権は摂津国平野荘*12大徳寺山城国賀茂郷、醍醐寺などに徳政の免除を認めている*13。やや文意が取りにくいところもあるが、蔵方が日頃から織田政権の指示に従っていない様子がうかがえる。信長の在地支配は道半ばと言ったところだろうか。

*1:元亀元年10月4日幕府が徳政を行った。また河内・山城をめぐり三好三人衆と秀吉が争い、奪還したばかりだった

*2:奈良興福寺領「サガラカノショウ」、山城国相楽郡、上図参照

*3:守護権が及ばない領域、守護の代官などが立ち入ることのできない土地。「守護使不入」などともいう

*4:興福寺

*5:突然

*6:チカゴロ、「比」は「頃」と同じ

*7:「届ける」で承知する、約束を果たす

*8:要するに、結局のところ

*9:興福寺塔頭の「光証院」か、もしくは近江国園城寺三井寺塔頭

*10:元亀元年

*11:質屋

*12:信長の「料所」=直轄地

*13:奥野「織田信長文書の研究」255、261、262号文書など