日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

永禄1年9月 松永久秀、寺家と百姓の対立を仲裁する???  醍醐寺文書之四 917号文書 醍醐惣庄申状案を読む その2

 

 

(三条目:原文)

一、山科七郷・下十一ケ郷、何も過分損免被下候、殊去年日損百姓無正躰候、近郷勧修寺其外所々分者、山上并両院家損免被下候て、醍醐小野迄被下間敷由被仰候、迷惑仕候、去年中出砌、在所者共山上番仕候、致忠節候、此抔之趣、可然様御取合奉憑存候、恐惶謹言、

     醍醐
 (永禄元年)二月十九日     惣庄 判
  岩崎越後守殿
       人々御中

(書き下し文)

ひとつ、山科七郷・下十一ケ郷、いずれも過分に損免下され候、ことに去る年日損の百姓正躰なく候、近郷勧修寺そのほか所々の分は、山上ならびに両院家損免下され候て、醍醐小野まで下されまじきよし仰せられ候、迷惑つかまつり候、去年中出すみぎり、在所の者ども山上番つかまつり候、忠節いたし候、これなどの趣、しかるべきよう様御取り合せたのみに存じたてまつり候、恐惶謹言、

(大意)

ひとつ、山科七郷や下十一ケ郷はどこでも多めに年貢を負けて下さいました。とくに昨年日照りで困った百姓はまともに日常を送ることも出来ません。近郷の勧修寺その他の荘園年貢は、上醍醐寺および下醍醐寺、勧修寺家の年貢を負けてくださっておりますのに、醍醐寺の年貢は小野郷まで持ちかえることはまかりならぬとのご下命がくだり、まことに迷惑です。昨年年貢を納めた際、村々の者は者どもは山上番を勤め、致忠節を尽くしました。これらの趣旨、そうなりますようどうか仲裁して下さいますようお頼みします。おそれながら以上申し上げました。

 

 

 

*山科七郷:現山科区のうち小野・勧修寺以外のほぼ全域の地。

 

*下十一ケ郷:勧修寺村。勧修寺領は山城国葛野郡紀伊郡にある。

 

*無正躰:日常生活が成り立たなくなること。

 

*近郷勧修寺其外所々分:近隣の勧修寺家領の荘園の年貢

 

*両院家:下醍醐寺と勧修寺と解釈した。

 

*小野:小野郷(現況都市伏見区あたり)

 

*被下間敷由:「下る」は「都から地方へ行くこと」(下り列車と同じ)。年貢を減免してもらい、免除された年貢米を郷村へ持ち帰ることはならぬとのこと。

 

*在所者共山上番仕候、致忠節候:「山上番」はおそらく夫役。年貢・公事は物納だが、夫役は労働力徴発。これは働き手を失うので百姓にとってはもっとも負担が重い。「郷村の者どもが山上番を勤めて、忠節を尽くしているのに、あまりに冷たい仕打ち」の意。

 

*憑:「頼」「恃」と同様に「たのみ」

 

*岩崎越後守:言経卿記永禄11年8月24日の条で、京都の訴訟に携わっていることから、問注所のものと思われるが不明。

そうだとすれば、醍醐寺と百姓間の訴訟の仲裁をまず松永久秀が行い、それでも決着がつかないので幕府へ、百姓が訴えたことになる。

 

荘園領主と百姓間の仲裁を行うべき地域権力=松永久秀ではうまく折り合わず、埒があかないので、中央権力へ訴え出たということになる。百姓は久秀の裁定を支持し、対する寺家はこれを不満とし、反故にする。そこで百姓はより上級の権力である幕府へ訴え出たわけだ。

 

この訴訟は泥沼化し数年続く。まだ読んでいない史料があるので、この訴訟に松永久秀がどう関わるのか調べてみたい。

 

これによって戦国期の地域権力が百姓からどう見えていたか、その一端を垣間見ることができると思う。