日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正6年3月秀吉が播磨国の寺社に発給した禁制について

 

 

秀吉軍が破壊の限りを尽くした書写山円教寺周辺に秀吉は禁制を発した。それは以下の各寺社であった。

 

Fig.1 書写山円教寺と禁制発給寺社

                                    『日本歴史地名辞典 兵庫県』より作成

なお『日本歴史地名辞典』の「円教寺」の項に次のように記されている。

 

 

 

 

大永三年(一五二三)山名政豊軍が書写山での浦上軍との戦闘で敗退している(「鵤庄引付」斑鳩寺文書)。このように諸堂の再建が困難であったうえに、戦闘によって当寺は荒廃・衰退していった。天正六年(一五七八)三月六日、三木城の別所氏討伐のため播磨に侵攻した羽柴秀吉が書写山に布陣、このため衆徒らは方々に逃去り、坊舎・仏閣は開基以来という損壊を被った。このとき秀吉から五〇〇石を寄進されたが、破損修復のためにはあまりにもわずかであったという(「播州書写山円教寺古今略記」円教寺蔵など)。

 

 

 

 

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「結構な被害」どころでないことは前回明らかにしたとおりで、地名辞典の記述より矮小化されている。

 

それはともかく3月6日に円教寺に「乱入した」ときには男女貴賤を問わず欠落したとある。

 

 

 

去る天正六年戊寅三月六日乱入なり、老若上下方〻に馳せ散り、坊舎仏閣一時に破損す、開基已来六百余年のあいだに及ぶの、かほどの乱謀これなし、住侶陸沈牢籠して、さらに方角を失う

 

 

 

 

「開基以来600有余年ものあいだにこれほどの乱妨狼藉はなかった」と記すくらいの被害だったことは改めて押さえておくべきだろう。

 

 

秀吉はこれ以前禁制を5通しか発してこなかった。しかも禁制は「八月日」のように通常日付は入れない。しかし秀吉がわざわざ日付を書いたことには意味があろう。

 

Table.1 秀吉による天正6年までの禁制発給

 

 

さて本文中に見える「当手軍勢」とは何か。これは「当方の軍勢」の意味で味方の軍勢を指す。戦国期には「敵地」と「味方の地」という区別が存在し、「味方の地」の寺社や郷村は数貫文の制札銭を負担してこのような禁制を下付される。書写山円教寺周辺の寺社に禁制が発せられたのは3月20日から29日で、秀吉軍が同寺に乱入して破壊の限りを尽くした6日から約2週間後のことである。周辺寺社は円教寺での秀吉軍の振る舞いを見て禁制を要求したのだろう。

 

これらの史料も戦時暴力の凄まじさを物語っていると言える。