しばらく秀吉発給文書から離れていたが、視点を再び秀吉側に戻してみよう。
路次*1仁残し置*2候其方人数千人之事、木曽江*3召寄*4、材木山出*5可仕候、猶奉行*6共*7可申候也、
三月廿三日*8 (朱印)
羽柴岐阜侍従とのへ*9
(四、2994号)(書き下し文)路次に残し置き候その方人数千人のこと、木曽へ召し寄せ、材木山出し仕るべく候、なお奉行ども申すべく候なり、
(大意)小田原までの途上で残してきた兵士千人の件について。木曽へ呼び寄せ材木の山出しをさせなさい。詳しくは使者が口頭で申す。
天正17年月日未詳の「山中城取巻衆書上」*10によれば、当初伊豆国田方郡の山中城を包囲する軍勢は以下のように家康が総員67,800人の44パーセントを占める30,000人を、池田照政は3.7パーセントに当たる2,500人を動員する予定だった。同時に包囲する同郡韮山城には44,100人を割り当てていた*11。
表1. 山中城取巻衆
図1. 同内訳
しかし、本文書によると「路次に残し置き候その方人数千人」とあるように、戦地に何らかの理由で送ることができず「途中に千人ほどの軍勢を残留させてしまった」ようである。
大軍の輸送は陸路と水路に分けたとしても輸送能力を超えてしまえば「渋滞」してしまう。近世ヨーロッパの軍勢が「移動する大都会」であるという指摘を踏まえれば、大軍が戦線各地で「都市問題」を引き起こすことは必然である。都市問題とは都市の収容能力を人口が超えた際、食糧や宿の確保(住宅不足)、交通渋滞、塵芥や排泄物などの衛生問題(公害)、感染症の流行(エピデミック)などが生じるがこれら諸問題の総称である。軍のインフラストラクチャ(社会基盤)である兵站や輜重が完備されていなければこうした問題は「現地調達」か戦線の縮小のいずれかを選択しなければならない。
池田照政の軍勢はほんの数パーセントに過ぎず「焼け石に水」の感なきにしもあらずといったところだが、秀吉はこの問題に戦線縮小を選んだようだ。
図2. 信濃国木曽郡周辺図
秀吉は織田信雄・徳川家康領国内の留守居を以下のように定めた。
図3. 尾張三河周辺図
表2. 織田信雄・徳川家康領国内留守居衆
このとき星崎城留守居中にあててこう書き送っている。
当城留守居として吉川(広家)差し遣わされ候、すなわち入れ置くべく候、それについて奉公人妻子これある家ども陣取り*12相除*13くべき旨、堅く仰せ付けられ候、
(2970号)
星崎城の留守居に吉川広家を派遣したので、城内に入れるように。その件について奉公人(家臣)の妻子が住んでいる家屋敷に陣を構えることを禁じた、という内容である。
つまりこうした禁令を出さねばならないほど、出征している家臣団の家屋敷に「陣を構える」、寝床を確保する行為が行われていたということになる。もちろん「空き家に宿を確保せよ」という意味もあろう。いずれにしろ武装した集団が入城し、都市の収容能力を超えればこうした問題は当然生じる。
こうした行為を防ぐには人口を分散する、ガス抜きするのが早道である。そこで本文書のように木曽へ派遣することを命じたのではないか。
もちろんこのようなケースは本文書以外見ていないのでこれをもって一般化することは避けるべきである。ただ行軍中に生じる物理的な問題を追究することは必要であろう、「腹が減っては軍は出来ぬ」の喩え通り。