日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正17年12月5日加藤嘉明宛豊臣秀吉朱印状

 

 

(包紙ウハ書)

「           加藤左馬助とのへ*1 」

 

 

北条*2事、致表裏*3不届次第無是非候、然者来春*4被成御動座、可被加御誅伐候、御先勢従正月被相立候、其方儀人数六百召連、為船手*5自身可相動*6候、然者二月中至伊勢・志摩令着岸、舟共相揃、九鬼大隅守*7為案内者之条、於彼地*8*9等可相談候、猶浅野弾正少弼*10・増田右衛門尉*11可申候也、

 

  十二月五日*12 (朱印)

  

     加藤左馬助とのへ

 

(四、2831号)

 

(書き下し文)

 

北条のこと、表裏致し不届次第是非なく候、しからば来春御動座なられ、御誅伐を加うらるべく候、御先勢正月より相立てられ候、その方儀人数六百召し連れ、船手として自身相動くべく候、しからば二月中伊勢・志摩に至り着岸せしめ、舟ども相揃え、九鬼大隅守案内者たるの条、彼地において行てなど相談ずべく候、なお浅野弾正少弼・増田右衛門尉申すべく候なり、

 

 

(大意)

 

北条の件、表裏するなど不届至極である。ついては来春自ら出陣し、誅伐を加えることとする。先勢を正月より派遣する予定であるので、そなたは軍勢600名を従え、水軍として自ら軍事行動を起こすように。2月中に伊勢・志摩両国に着岸し、船数を揃え九鬼嘉隆を先導役として小田原での行動など相談するように。なお浅野長吉。増田長盛が詳細を述べる。

 

 

 

船手人数の各大名の割当は下表の通りである。2837号および2838号文書によると軍役は領知高の約5パーセントを「無役」とし、残りの約95パーセントの石高に対して「20石に付き1名」の負担としている。「船手」人数だけが軍役ではないが推定総石高を計算してみた。毛利輝元の12万石というのはかなり過小な数値と思われるので、「船手」人数のみから推し量るのはやはり無理があるようだ。

 

「船手」には主に水軍と舟の漕ぎ手の意味があるが「船手として自身相動くべく候」とあることから水軍と解する方がよさそうである。とすると陸戦部隊の兵員を別に課される可能性もある。

 

 

表1 船手人数割当

これをグラフにしたのが図1である。各大名のランクがほんの少しだけ可視化されたのではと思う。

 

図1. 表1をグラフ化したもの

                         2834号文書より作成

石高が何を意味するかはともかく、支配下にあるすべての土地を石高に結ぶことで各大名が負担すべき軍役の基準が一元化されたことは間違いない。その基準は以下の通りである。

 

 (各大名の総領知高)* 0.95 *(1/20)=(軍役負担兵員数)

 

「0.95」で無役分約5パーセントを控除し、それに20石に1名の軍役負担「1/20」を掛ければ負担すべき兵員数が算出される、秀吉側にとってみれば非常にシンプルな方法である。むろん同じ割合で負担せねばならないので石高が少ない大名ほど負担は重くなり、逆に大きい大名ほど負担は軽くなるので大名にとっては逆進的である。

 

さて加藤嘉明に伊勢志摩両国にて船数を揃えるように命じている。両国の位置は下図2の通りで、ここから海路東へ向かう水軍を用意させた。

 

図2. 伊勢・志摩周辺図

                    「伊勢国」(『国史大辞典』より作成)

 

*1:嘉明

*2:氏直

*3:言葉と本音が異なること、約束を違えること

*4:翌1~3月。1~3月が春、4~6月が夏、7~9月が秋、10~12月が冬

*5:水軍もしくは舟の漕ぎ手

*6:はたらき

*7:嘉隆

*8:小田原

*9:てだて=軍事行動

*10:長吉

*11:長盛

*12:天正17年。グレゴリオ暦1590年1月10日、ユリウス暦1589年12月31日