志岐城*1落居之様子言上*2候、小西摂津守*3同前ニ相動*4砕手*5之由被聞召届候*6、無由断儀、尤ニ被思食候、次天草表儀、是又小西相談、無越度様可申付候、猶浅野弾正少弼*7可申候也、
十二月五日*8 (朱印)
加藤主計頭とのへ*9
(四、2830号)(書き下し文)
志岐城落居の様子言上候、小西摂津守同前に相動き手を砕くの由聞し召し届けられ候、由断なき儀、もっともに思し食され候、次いで天草表の儀、これまた小西相談じ、越度なきよう申し付くべく候、なお浅野弾正少弼申すべく候なり、
(大意)
志岐城を落としたとの報告、行長同様によく働き手を尽くしたこと確かに聞き届けた。油断ないこともっともである。次に天草表の件についてはこれも同様に行長とよく相談して行動するように。なお詳しくは浅野長吉が口頭で申す。
Fig.1 志岐城地形
Fig.2 志岐と八代
天正17年11月8日浅野長吉宛小西行長書状写*10によると清正と行長は「九州御置目」、つまり九州全域の治安維持を任されていた。小田原北条氏攻めのため後顧の憂いを断つためである。
10月3日付で松浦兵部卿法印宛の秀吉朱印状が残されている。11月7日に到着したようだが行長の書状にも以下のように見える。
一、五島・平戸の唐人、八幡*11仕り候由、御朱印成し下され、昨日*12頂戴致し候、すでに平戸・五島これに在陣仕り候あいだ、上意の旨を申し聞け、当春大唐エ商売ニ罷り出で候、唐人そのほかいずれも相留まり改め申し候、残らず召し集め罷り上り候こと、
以前読んだ松浦兵部卿法印宛朱印状は行長が取次であった。この兵部卿法印も「倭寇」の一人だったのだ。
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当時五島や平戸在住の「唐人」らが海賊行為を行っていた。こうしてみると九州を支配下におさめたとは言え、それはあくまで大名レベルの話で国人や在地レベルでは「秀吉による平和」は実現していたとは言いがたい。
鉄砲伝来に大きく関わった王直が平戸を根拠としたように「唐人」が九州に広汎に居住していたことは秀吉発給文書からもうかがえる。
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フランシスコ・シャビエル(ザビエル)とマラッカで出会ったアンジローも薩摩の倭寇だった。出会いののち敬虔なカトリック信者となったものの、棄教して倭寇に戻り最期を遂げたという。こうした海上世界を中心に生活していた人々(「境界人」=マージナル・パーソン)の存在を抜きにして、ヨーロッパ側からのみ見た「大航海時代」を語ることは出来ないであろう。
フロイス『日本史』によると、畿内でキリシタンに対する秀吉の弾圧が激しくなり、多くが肥後へ移り住んだという。志岐城に立て籠もった人々もキリシタンが多くいたようでキリシタン大名である行長は降伏するよう手を尽くしたが、清正は武力制圧を主張し、行長も最終的にはそれに同意した*13。