日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正18年1月8日龍造寺高房宛豊臣秀吉知行割目録写

 

   肥前国龍造寺藤八郎*1知行割之事

 

                 但田畠七千八百拾弐町弐段

一、八万七千石               佐嘉郡*2

 

                 但田畠四千弐百四十五町八反

一、四万七千弐百石             小城郡

 

   合拾三万四千弐百石内

 

     三万石              藤八郎京のまかない*3

 

     五千石              民部大輔いんきよ分*4

 

     壱万千弐百石           佐嘉にてのたい所*5

 

     八万石              馬廻*6ニわりわたすへき分

 

      已上

 

                 但田畠二千二百廿八町壱反

一、弐万四千五百四拾六石          三根郡

 

  (中略・・・下表を参照)

 

  都合三拾万九千九百弐斛*7

 

小給人所付*8わり付候てわけ可申、銘〻ニ御朱印被下候也

 

   天正十八年正月八日*9  御朱印有

           

            龍造寺藤八郎とのへ

 

(四、2913号)

 

(書き下し文)

 

    肥前国龍造寺藤八郎知行割の事

 

      (中略)

 

小給人に所付割り付け候て分け申すべし、銘〻に御朱印下され候なり

 

 

 

本文中略した部分は表1の通りである。

 

表1. 龍造寺高房宛知行割一覧

 

これを地図上にプロットすると、図1のようになる。

 

図1. 龍造寺高房宛知行割

                「肥前国」(『国史大辞典』より作成)

一見して領域的なまとまりを成していなかったことがわかる。さらに3月7日に発せられた龍造寺政家分、同家晴分、後藤晴信分に関しては表2の通りである。この3通が本文下線部の「銘々に御朱印下され候也」の「御朱印状」である。

 

表2. 政家らの知行目録

小城郡4万7200石のうち、3,300石余りが後藤家信へ、4,503石余が龍造寺家晴へあてがわれており、やはり郡レベルで領域的なまとまりに欠ける。政家は隠居の身分なので軍役負担は免除され、龍造寺家晴と後藤家信は軍役をつとめる際高房の寄子となることを命じられている。

 

下線部の「小給人」とは龍造寺家の「給人」、つまり秀吉の倍臣ではなく、「小規模な給人」という意味で秀吉の直臣に当たるはずである。なぜなら秀吉から朱印状により直接知行を充行われているからである。ただし軍事行動の際は高房に付き従って、寄子として行動するよう命じている。

 

さて検地を行った形跡もないのになぜこのような領知目録を発給したのだろうか、あるいは発し得たのだろうか。しかも加増までして。

 

この時すでに「小田原陣立書」や「韮山城取巻衆書上」、「山中城取巻衆書上」などが作成済であった。しかし龍造寺氏はそこから漏れている。そのため軍役負担の動員基準を定めるため、急ぎ「机上で」作成したのではないか。言い換えれば負担すべき軍役が先にあって、そこから「仮の」石高を「算出」したのではないだろうか。あくまで可能性のひとつに過ぎないが。

 

*1:高房

*2:肥前国、以下同様

*3:在京賄い分

*4:正家隠居分

*5:台所、財政

*6:高房の旗本

*7:

*8:具体的な郷村名

*9:グレゴリオ暦1590年2月12日、ユリウス暦同年同月2日