肥後諸城番手*1之儀、十月中所務等*2取納候迄、在番可被申付候、打続造作*3儀候也、
八月十日*4 (朱印)
羽柴筑前侍従とのへ*5
(三、2589号)(書き下し文)肥後諸城番手の儀、十月中所務など取り納め候まで、在番申し付けらるべく候、打ち続く造作の儀に候なり、(大意)肥後にある様々な城に詰めている兵士のことは、10月いっぱい年貢諸役などを無事収納するまで、在番するように。引き続き厄介なことだがしっかり勤めるように。
同日、上記文書が加藤清正、高橋直次*6、筑紫広門*7、龍造寺政家にも発せられている。熊本城主の清正はもちろん、筑前や筑後、肥前の大名らにも「所務など取り納め候まで」治安維持につとめよと命じている。それだけ肥後国衆一揆の豊臣政権に与えた衝撃が大きかったわけである。
Fig. 肥後諸城在番を命じられた諸大名
ここで重要なのは「十月中所務など取り納め候まで」とあるように年貢諸役の納入をつつがなく行うために軍を駐留させたことである。言い換えれば豊臣政権による「惣無事」とは軍事力の圧倒的独占による年貢収取が本質だということである。ここに豊臣政権の兵営国家(高木昭作)としての性格の一面があらわれている。