一、当市毎月五日、十日、十五日、廿日、廿五日、晦日之事、
一、らくいち*3たる上ハ、しやうはい*4座やく*5あるへからさる事、
一、けんくハ*8こうろん*9りひせんさく*10□(に)を□□(よハ)す*11、双方せいはい*12すへき事、
一、はたこ銭*13ハたひ人*14あつらへ*15次第たるへき事、
右条々あひそむくともから*16これあらは、地下人として*17からめをき、ちうしん*18あるへし、きうめい*19をとけ、さいくハ*20におこなふへき者也、仍掟如件、
天正七年六月廿八日 秀吉(花押)
「一、199号、66頁」
(書き下し文)
掟条々 淡川市庭
一、当市毎月五日、十日、十五日、廿日、廿五日、晦日のこと、
一、楽市たる上は、商売座役あるべからざること、
一、国質・所質[ ]のこと、
一、喧嘩・口論理非詮索に及ばず、双方成敗すべきこと、
一、旅籠銭は旅人誂え次第たるべきこと、
右条々相背く輩これあらば、地下人として搦め置き、注進あるべし、糺明を遂げ、罪科に行うべきものなり、よって掟くだんのごとし、
(大意)
掟の条文 淡川市庭へ
一、当市の開催日は毎月5日、10日、15日、20日、25日、晦日*21とする。
一、楽市としたからには、商売座役を懸けることを禁ずる。
一、国質・所質*22は[ ]とする。
一、喧嘩・口論があった場合には、どちらに理があり、どちらに非があるか詮索せずに双方とも成敗する。
一、旅籠の宿賃は宿泊者の注文通りとすること*23。
以上の条文に背く者がいた場合、市庭としてこの者を捕らえ、報告しなさい。こちらで吟味した上で罪科に処す。以上掟である。
これは三木城攻めのさなかに発給された。本文書については長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』(平凡社、2019年)が詳しい。図を見ればこの市が交通の要衝にあったことが分かる。長澤上掲書の「図5」は淡河の交通的・軍事的事情を分かりやすく伝えている。この制札(木製)は軍事的・戦術的文脈で解するのが妥当であろう。
市場の開催日を定め、幕府、荘園領主、寺社などが賦課する「座役」、すなわち商売座に加入するための負担を禁じている。
国質、所質は中世特有の債務関係であり、戦国大名もこれらの慣習を禁じている。明智光秀も天正8年丹波国多紀郡宮田市場に同様の文書を発給している*24。たとえば、A国に属する者がB国の者によって1人殺害された場合、B国の者は1人分A国に「貸し」をつくることになる。この債務関係を解消するには、B国に属する者1人をA国の者が殺害する方法がとられる。所質も同様に、郡や庄、郷、村など「所」に属する者1人を差し出さねばならない。こうした解決法を禁じたのである。ここでは該当部分が破損しているため「禁じた」と断定できないが、掟の性格上そう判断できよう。
喧嘩・口論といっても中近世の「喧嘩」には弓鑓鉄炮を持ち出す合戦のような規模の場合もある。そうした行為に至った者は理非曲直を問わず全員処罰する喧嘩両成敗の原則に準ずるとする。ただし、喧嘩両成敗の原則がつねに貫かれたかというとそうでもなく、個別には事情を聞き出しているようで上級領主の思惑通りに行かなかったようだ。
旅籠の宿賃を旅人の「誂え」たとおりにせよとのくだりは宿賃は旅人の言い値で泊まらせろという意味か、食事を注文通りに作りなさいという意味かここからは読み取れない。ただ宿泊時、よく揉めたらしいということだけは言える。長澤氏はこの部分を「旅籠銭(の支払いは)、旅人の持ち分に準じること」(168頁)と解釈している。
以上の旨に背く者がいれば市庭として責任をもって生け捕りにし、注進せよと命じている。この「搦め捕る」という文言がしばしば見られることから、市庭の者による私刑を禁じたものとも読める。家康政権時の慶長8年3月27日付「覚」でも「百姓をむさと殺し候こと御停止たり、たとい科あるといえどもこれを搦め捕り奉行所において対決の上申し付くべきこと」*25と見える。同史料集は「斬棄御免は俗説で、理由もなく百姓を殺すことは出来なかった」*26と注釈を入れている。
さて、本ブログでは楽市・楽座への言及を避けた。そのあたりについては長澤上掲書に拠られたい。同書には一般向けには珍しく49点もの「史料編」が原文と読み下しつきでまとめられている。付録としては豪華版であろう。もちろん参考文献=先行研究のリストもある。よくある、織田信長=中世の破壊者イメージと強固に結びついた「楽市楽座」像のような初等・中等教育で刷り込まれた先入観を払拭するには格好の入門書と言えるだろう。