日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

元和5年(1619)2月21日奉行所宛山城国葛野郡原村惣中訴状

 

      乍恐申上候

 

一、丹波国出雲村与山城国原村与山の出入*1二付、□□(御見)使被仰付被成御覧候間、有体可被仰上候間紙面に不申上候事、

 

一、山城国与丹波与堺目、①先々より無紛義ニ御座候、然処ニ②出雲村之領内之由、新義ニ申懸候事前代未聞ニ御座候事

 

一、去正月十九日ニ出雲村理右衛門・中村*2伝右衛門大しやう*3ニ□、うへ木*4をほり*5竹木をきり*6取申候事*7

 

一、小口村忠右衛門、同作兵衛大しやう仕、いなり*8山社を打やぶり*9山下*10へ打くたし*11申候事、

 

一、小口村与一、原村の家々乱入、戸たてく*12打やふり申事、

 

一、当月十二日ニ重而又大せい*13をもよほし*14、北屋村*15の与三郎と名乗、原村のはり堂まて打やふり候事、

 

一、作まへ*16の儀ニ御座候間、今程*17被仰付候ハねハ、耕作仕付*18候事成不申候事

 

右之通御見使御覧候間、被成御尋*19被仰付候ハヽ忝可奉存候、以上、

 

   二月廿一日           原村

                     

                     惣中(花押)

 御奉行様

 

(『新修亀岡市史資料編第二巻』412~413頁)

 

(書き下し文)

 

      乍恐申上候

 

一、丹波国出雲村と山城国原村と山の出入につき、(御見)使仰せ付けられ御覧なられ候あいだ、ありてい仰せ上げらるべく候あいだ紙面に申し上げず候こと、

 

一、山城国と丹波と堺目、①先々より紛れなき義に御座候、しかるところに②出雲村の領内の由、新義に申し懸け候こと前代未聞に御座候こと

 

一、去る正月十九日に出雲村理右衛門・中村伝右衛門大将に□、樹木を掘り竹木を伐り取り申し候こと、

 

一、小口村忠右衛門、同作兵衛大将仕り、稲荷山社を打ち破り山下へ打ち下し申し候こと、

 

一、小口村与一、原村の家々に乱入し、戸・建具打ち破り申すこと、

 

一、当月十二日にかさねてまた大勢を催し、北屋村の与三郎と名乗り、原村のはり堂まで打ち破り候こと、

 

一、作前の儀に御座候あいだ、今程仰せ付けられそうらわねば、耕作仕付候こと成り申さず候こと

 

右の通り御見使御覧候あいだ、御尋なられ仰せ付けられそうらわば忝く存じ奉るべく候、以上、

 

(大意)

 

   恐れながら申し上げます

 

一、丹波国出雲村と山城国原村の山論について、御検使を派遣され現地の様子をご覧になりましたので、あるがままを申し上げましたので本書面に申し上げていないことを以下述べます。

 

一、山城と丹波の国境線について、①従来から紛れのない明白なことでございました。ところが②出雲村の領域内であると新たに申し懸けられ、前代未聞のことでございます

 

一、去る1月19日には出雲村理右衛門と中村の伝右衛門を大将と仰ぎ、樹木を掘り竹木を伐り取っていきました。

 

一、小口村忠右衛門と作兵衛を大将に、稲荷山社を破壊し麓へ押し寄せてきました。

 

一、小口村与一は原村の家々に乱入し、戸や建具を破壊しました。

 

一、2月12日にはまた多数で押し寄せ、北舎村の与三郎と名乗る者が、原村のはり堂まで破壊の限りを尽くしました。

 

一、これから耕作の季節ですので、近日中に裁定を下していただきませんと田植に間に合いません

 

右のように御検使に御覧いただき、御糺明いただければ幸いでございます。

 

Fig.1 元禄国絵図丹波山城国境付近

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         国立公文書館所蔵元禄国絵図「丹波」、「山城」より作成

Fig.2 大正期上記付近地勢図

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「今昔マップ」より作成  https://ktgis.net/kjmapw/index.html

小口、出雲、北舎、中村の者たちが、これまで原村の「領域」とされてきた部分を「新儀に」自らのものと主張し、村内を破壊し尽くしたと原村は訴えている。

 

出雲などにとっては自分たちの「領内」であるので、原村が集落を構え、樹木や竹木等の資源を享受するのは「不当である」ということになる。紛争とはつねに正当性の衝突であって、自らを「不当である」ということはまずない

 

今回も前回と同様に「大将を仕り」とあるように指揮系統にもとづく統率の取れた行動だったことをうかがわせ興味深い。一方自力救済ではなく、領主の裁定を仰ぐ戦略を採用したのは原村の方だった。

 

原村は領主に裁定を急かすのだが、③にあるように田植に間に合わないことを強調している。田植ができなければ結局年貢を徴収することはできず、領主にも不利益となる。なかなか強かな戦略というべきであろう。

 

*1:デイリ。相論、紛争

*2:桑田郡出雲ノ中村、下図参照

*3:大将

*4:「植木」、「樹」、「樹木」。樹木一般のことで今日のように観賞用のため庭園に植える木ではない。なお植林した樹木のみを指すわけでもない

*5:掘り

*6:伐り

*7:「植木」は木材としても薪炭としても商品になる上、落葉は肥料になる重要な資源である。つまり資源の争奪戦で単なる嫌がらせではない

*8:稲荷

*9:「破る」は破壊するの意

*10:山の麓。集落のある場所

*11:「下す」は負かすの意

*12:建具

*13:大勢

*14:「催す」は人々を集める、召集する。「軍勢を催す」などという

*15:桑田郡北舎村、下図参照

*16:耕作

*17:近日中に

*18:「仕付」は「正しく苗を植える」の意で、転じて田植えや耕作一般を意味するようになった

*19:状況、道理などを明らかにしようとすること