一、大友休庵*1召寄、右之国*2之儀可申渡候、休庵被居候城ハ、休庵次第可然候事、
一、於豊後国、大友左兵衛督*3去年越度トラレ候刻*4、国之者*5覚悟ヲ替*6候処、志賀右衛門*7・佐伯*8両人無比類致働、大友家へ非義*9ヲ不働者ニテ為褒美城一宛トラセ、其際*10ニテ知行ヲ出候義、休庵ト可致談合候、知行大小も可有之歟、ソレハ休庵次第能之様、可然候事、
(書き下し文)
一、大友休庵召し寄せ、右の国の儀申し渡すべく候、休庵居られ候城は、休庵次第然るべく候こと、
一、豊後国において、大友左兵衛督去年越度取られ候きざみ、国の者覚悟を替え候ところ、志賀右衛門・佐伯両人比類なき働き致し、大友家へ非義を働かざる者にて褒美として城一つずつ取らせ、そのきわにて知行を出だし候義、休庵と談合いたすべく候、知行大小もこれあるべきか、それは休庵次第これよきよう、然るべく候こと、
(大意)
一、大友宗麟を呼び寄せて、日向国のことを直接申し伝えなさい。宗麟に住まわせる城は自身に決めさせなさい。
一、豊後国において、大友義統がしくじった際、つまり「国の者」たちが心変わりをしたときに、志賀親次・佐伯惟定がめざましい働きをし、大友家へ「非義」を働かなかったので褒美として城をひとつずつ与える。その城のまわりに知行地を与える件は宗麟とよく相談しなさい。知行高の多寡もあるだろうから宗麟次第にさせなさい。
Table. 四等官 「督」
上表から「衛門」、「兵衛」といった名前が「左右衛門府」、「左右兵衛府」に由来することがわかる。したがって「○○衛門/○○兵衛」のあとに「督」、「佐」、「尉」が続くのも自然な流れである。初期の検地帳には「衛門尉/兵衛尉」の名を持つ百姓が多数見られる。ところが、である。メディアで新史料の発見が報じられる際、この「尉」が黙殺される例があとを絶たない。記憶に新しいところでは、明智光秀が登場する「最古の」史料発見において、「明智十兵衛尉」(ジュウベエノジョウ)とあるところを「明智十兵衛」と改竄して報じていた例が挙げられる。
「尉」は「兵衛府の判官」という意味である。
それはさておき、本文の検討に入る。この二ヶ条は大友宗麟と、大友家への忠誠を果たした志賀氏・佐伯氏に日向国にて城と知行地を与えるよう命じたものである。注目すべき点は二点である。
ひとつは「国の者」の独立性が高く、主君に「盲従する」近世的な主従関係とは異質であることである。この「盲従する家臣」像というのもフィクションなのだが、時代劇などでは依然主流である。
今ひとつは、志賀・佐伯両氏に与える知行地については宗麟次第としている点で、やはり大名の独立性を秀吉が尊重していることがうかがえる。積極的に独立性を認めたのか、それとも本音では権限の集中化を図ろうとしたものの、諸般の事情から妥協的にそうしたのかそこはわからない。ただ秀吉が九州での仕置を妥協的に進めようとしたことは、佐々成政の「不始末」の件でもうかがえる。