『秀吉文書集二』は「栃木県庁採集文書」から「写」を収載しているが、『大日本史料』第11編10冊および24冊「補遺」に収載された翻刻文は原本のように見え、同文書群に原本が含まれているのか否か判断に迷うところである。
ところで秀吉文書集1770号には、『大日本史料』第11編10冊344頁収載文書の年代比定を天正12年としている旨注記しているが、24冊補遺では天正13年に修正している。天正13年の編纂事業は、1965年から2014年までおよそ半世紀懸かったとのことであり、当然さまざまな問題が生じうる。こうした点については
なお、写本等に基づいて編纂を行ない、その後原本ないし善本が発見されたケースが多々あるが、内容に大きな異同がある場合のみ差し替えを行なうこととし、それ以外は本来の編纂のままとした。また、史料の発見によって、条そのものが不適切であると判断されるに至った例もあるが、今回の補遺を通じてそれらを上書きすることとし、問題の条をことさらに取り消すことはしていない。
「大日本史料 第十一編之二十六」(『東京大学史料編纂所報』第47号、2011年所収)、https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/47/pub_shiryo-11-26.html
下線は引用者
との編纂方針が採られている。もっとも世間ではコンピュータファイルや記憶の「上書き」といった場合、都合の悪い事柄を「なかったことにする」、「書き換える」という意味で使われるので、「名前を付けて保存」したといった方が理解しやすいのかもしれない。刊本上ではもちろん、「大日本史料総合データベース」上でも本文書が「天正12年12月20日条」、「天正13年12月20日条」双方に現れるのはそうした事情に拠っているのだろう。
さて、本文を見てみよう。
最前染筆候、家康*1事如何様共、天下*2次第之旨、令懇望候、然者家康并相州氏直*3人質出置候、此方於存分者、先度申遣之筋目、如有来令申付候、若令相違者、明春早々出馬可加誅伐候、其面事、何篇無越度候様、覚悟専一候、猶追而可申越候也、
十二月廿日*4 (花押影)
佐野修理進とのへ*5
(折封ウハ書カ)
「佐野修理進との 秀吉」
『秀吉文書集二』1770号、292~293頁
(書き下し文)
最前染筆候、家康こといかようとも、天下次第の旨、懇望せしめ候、しからば家康ならびに相州氏直人質出し置き候、此方存分においては、先度申し遣わすの筋目、有り来たるごとく申し付けしめ候、もし相違せしめば、明春早々出馬し誅伐を加うべく候、その面のこと、いずれへん越度なく候よう、覚悟専一に候、なお追って申し越すべく候なり、
(大意)
真っ先にお手紙をしたためしました。家康の扱いについて「秀吉の御意次第に」と申し出てきましたので、家康及び氏直から人質を出してきました。こちらが満足すれば前回申し遣わした道理、つまりこれまでの所領を安堵し、もし違背すれば年明け早々出馬し、攻め滅ぼすつもりでおります。下野方面についても怠りなく心構えをして置いて下さい。なお詳しくはのちほど。
前回見た大友義統宛文書でもそうだが、秀吉はいまだ余震の続くなか積極的に大名間の調停に乗り出している。一方路頭に迷う人々に施しをする気配すら感じられない。雨露を凌ぐ家を失い、そのうえ旧暦の12月下旬は現在の2月にあたるという寒さ厳しい折りでもある。自力救済の時代とはいえ、人々は天下人に何も期待していなかったのだろうか大いに気になるところである。