秀吉発給の文書がまた発見された。「豊臣秀吉文書集 一」は天正11年までを範囲とするが掲載されていない未発見の、しかも原本である。原本は写と異なり書き写す段階での誤写*1がない上、料紙は何が使われているかなども検討できる点で、史料としてもっとも精度が高く、かつ与えてくれる情報量が多い点で写の比ではない。「写がすでに知られているから、原本発見にそれほど意味はない」という妄言を披露する方もごく一部に見られるが、写のなかには文書を偽造するにあたって、朱印や花押を偽造できない場合に「家康御判」(「家康(花押)」のつもり)と写の形で文書を偽造するケースもあるので、原本を写したものか、架空の文書をでっち上げたかという問題が解決する場合もある。原本が歴史学において重視される所以をわざわざ述べたのはそうした事情による。
発見を伝えた記事を掲載しておこう。
写真を拡大したものがこちらである。
掟
乱妨狼藉地下人ニたいし不謂
せいはい*9すへき事、
以上
天正拾年三月廿六日 秀吉(花押)
小一郎*15とのへ
(書き下し文)
掟
一、ほとりならびに路次すがらにおいて、乱妨狼藉、地下人に対し謂われざる儀申し懸くる族、一銭斬りたるべきこと、
一、味方の地のうち押し買い・放火など堅く成敗すべきこと、
一、糠苅り、雑仕以下は亭者(亭主)にあいことわり、もらうべきこと
以上
(大意)
掟
ひとつ、付近や道すがらで地下人に対して乱妨狼藉をはたらいたり、謂われのない言いがかりをつけてくる者は、斬り殺しなさい。
ひとつ、味方の地(羽柴勢力圏)において押買いや放火はきびしく罰しなさい。
ひとつ、糠を刈り取ったり、雑用をさせる場合は亭主に断ってからさせなさい。
以上
秀吉は天正10年3月に備前、美作において、(1)自軍軍勢の乱妨狼藉の禁止、(2)放火や陣取りの禁止、(3)刈田狼藉の禁止の3条と「付けたり」として地下人に対して言いがかりをつけることの禁止からなる禁制を郷村や寺社、荘園宛に発給している*16。
こうした禁制は郷村や寺社などが制札銭と呼ばれる対価を支払って獲得するお墨付きで、戦国期によく見られる文書である。禁制の発給は「筑前守 秀吉(花押)」だが、ここでは筑前守を名乗っていない。
発給者が官職を名乗らず、受給人が羽柴秀長であることを考えると、禁制とこの「掟」は密接に関わるものの、個別に発給する禁制に対し、勢力下全体にこうした方針を徹底させるように秀長に伝えた「公的文書」と「私信」のあいだに位置づけられる文書と考えるべきかもしれない。
2019年10月22日 追記
本年11月に矢田俊文編『戦国期文書論』(高志書院)が刊行されるという。古代・中世の古文書学にくらべて、織豊期や近世以降の古文書学が大きく立ち遅れている現状から待望の書といえる。