2014年NHK大河ドラマ特別展「軍師官兵衛」展示図録、93号文書、90頁
(折紙)
急度申遣候仍
長曽我部為成
敗至尓四国来
月三日此方*1出馬
渡海候成其意*2
其以前も為先
勢淡州*3へ可有
着岸候聊不可
有由段者也
五月四日*4 秀吉(朱印)
黒田官兵衛尉殿
(書き下し文)
急度申し遣わし候、よって長曽我部成敗のため四国にいたり、来月三日此方出馬・渡海候、その意をなし、それ以前も先勢として、淡州へ着岸あるべく候、いささかも由段あるべからざるものなり、
(大意)
必ず申し遣わします。長曽我部攻めのため四国に到着し、来月3日黒田勢我が本軍が出馬・渡海します。そのためにも、6月3日以前に淡路国へ到着しなさい。少しも油断することのないようにすること。
四国攻めを命じる朱印状である。
興味深いのは、図録の解説(215頁)にあるように、差出が「実名(ジツミョウ)+朱印」となっているところである。前後を比較してみよう*5。
天正11年8月28日黒田孝高宛掟書、87号文書、「官職+花押」
天正13年5月4日、本文書、「実名+朱印」
天正15年7月3日黒田孝高宛朱印状、97号文書、「朱印」のみ
充所の位置も上から下へ徐々に下がっていく様子も明白で、薄礼化していく過程が見て取れる。関白叙任など政治的地位の変化にともない、文書の書式が変化する典型といえる。
これは孝高との関係だけでなく、その他の家臣や大名にも見られる変化である。
ところでドラマ「軍師官兵衛」の世界では、秀吉が「天下惣無事」と大見得を切るシーンがあり、道薫こと荒木村重が「天下惣無事など・・・」と吐き捨てる場面が印象的である。しかしこれではいかにも「惣無事令」が発布されたという誤解を招きかねない演出である。史料的に刀狩令や海賊禁止令は確認できるが、「多聞院日記」中に見える「喧嘩停止令」や「惣無事令」は未確認であり、論争中である。秀吉が「私戦」を禁じたのは事実で、それを「惣無事」と呼ぶことは問題ないが、それと「惣無事令」が存在することとは別問題である。むろん演出上、そうした設定の方が効果的なのだろうが、番組の終わりに「官兵衛紀行」という一見史実の解説のようだが、不正確な情報*6が語られることとともに、誤解や俗説を再生産している点は問題であろう。
四国攻めの概略図は次の通りである。
播磨・南海道概略図