(中略)一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉*6・くろた官兵衛*7両人差遣、城々請取、小早川ニ可相渡候、自然何かと申延、城を不渡輩在之ハ、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻、悉成敗可被申付旨、小早川懇ニ可申渡旨、両人ニ可被申付事、
一、いよの国城ともさかい*8目かなめ*9の城与申て、自然わたし*10候てハ如何与、はちすか彦右衛門尉・黒田官兵衛、秀吉かたへ可尋事も可在之候、早与州儀ハ、小早川*11へ出置候上ハ、何たるおしき*12城成とも、与州の内ならハ、此方へ不得御意*13、請取次第毛利かたへ可相渡候事、
(中略)
右条々、猶以森兵吉ニ申聞候間、聞届、条子之面不相残各可申渡候、少之儀をも此方へ可相尋候也、
八月四日*14 秀吉
美濃守殿*15
『秀吉文書集二』1529号、195~196頁
(書き下し文)
長曽我部侘言申すについて、森兵吉差し上げ一書ならびに口上の趣、いずれも聞き届け候、一、長曽我部実子・同家老者とも人質相越すべきの条、脇城・一宮のこと、両城主人質主として残るのよしもっともに候、城を請け取り、本丸へ入れ置く人数のよしもっともに候こと、(中略)一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛両人差し遣わし、城々請け取り、小早川に相渡すべく候、自然何かと申し延べ、城を渡さざる輩これあらば、後代の懲らしめに候あいだ、毛利家として取り巻き、ことごとく成敗申し付けらるべき旨、小早川ねんごろに申し渡すべき旨、両人に申し付けらるるべきこと、
一、伊予国城とも境目要の城と申して、自然渡し候ては如何と、蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛、秀吉方へ尋ねべきこともこれあるべく候、早与州の儀は、小早川へ出し置き候うえは、何たる惜しき城なりとも、与州のうちならば、この方へ御意を得ず、請け取り次第毛利方へ相渡すべく候こと、
(中略)
右の条々、なおもって森兵吉に申し聞け候あいだ、聞き届け、条子の面相残さずおのおの申し渡すべく候、少しの儀をもこの方へ相尋ぬべく候なり、
(大意)
長宗我部が降伏を申し出たことについて、森吉政が差し出した書面および口頭での報告の趣旨、聞き届けました。
一、長宗我部実子・同じく家老の者たちの人質を大坂へ送り届けるので、脇城・一宮城両城主を人質主として城に残すのは理にかなっています。城を受け取り本丸へ入れる軍勢についても同様です。
(中略)
一、伊予国へ蜂須賀家政・黒田孝高両名を派遣し、諸城を受け取り、小早川隆景に引き渡すこと。万一なにかと理由を付けて城を渡さない者がいたなら見せしめとして、毛利家が包囲してことごとく攻め滅ぼすよう、隆景に念入りに伝えるよう、家政・孝高両名に命じてください。
一、伊予国と城は境目の重要な城なので隆景に渡したらどうなるかわからない、と家政・孝高がこちらへ尋ねることもあるでしょう。しかしもはや伊予は隆景に与えると決めた以上、どんな名城だろうと伊予国内の城は、秀吉に尋ねることなく、城を受け取り次第毛利方に明け渡すようにしてください。
(中略)
右の条々森吉政に申し伝えたので、よく聞き届け、詳しく各自に伝えてください。なお少しでも疑問があればこちらへ問い合わせてください。
Fig.1 四国国分概略図
四国に覇を唱えた長宗我部元親が伊予・讃岐・阿波を差し出し、降伏を申し入れたさい、伊予の国分をめぐって蜂須賀家政・黒田孝高が秀吉に異議を申し立てた。伊予は国・城ともに「境目」にある「要衝」であるとして、小早川隆景に与えるのは禍根を残すということである。しかし秀吉は「何たる惜しき城なりとも」(どのように惜しい城であっても)もはや決定したことなので伊予国内の城は残さず毛利方、すなわち小早川方に渡すよう答えている。
すでに秀吉は従一位関白藤原秀吉であるが、小早川氏に一方的に命ずることなく、約束を果たそうとした。つまり公家的秩序とは異なる、武家的関係に秀吉が縛られていたことを意味する。関白任官で武家を靡かせるにはまだこの時期できなかった。文書の形式も従来通りで充所の位置は高い。参考のため、この頃の官位を図に示した。形骸化著しい上自称も多いのであくまでも参考である。
Fig.2 天正13年の官位
城を長宗我部側の城主から家政・孝高が受け取ったあと、小早川氏に引き渡すよう述べており、さらに「万一滞るようなら毛利家として城を攻め滅ぼすよう、小早川氏に懇ろに伝えるように」とも述べていて、小早川氏にずいぶんと配慮している。
8月14日秀長は隆景にあてて「与州(伊予)城々両人(蜂須賀家政・黒田孝高)差し越しきっと請け取り、これを渡し進ずべく候、われらにおいては無沙汰に存ぜず候」(伊予国内の城という城は家政・孝高を派遣し、受け取った上でお渡しします。決して疎かにしているわけではありません)と書き送っており、隆景に対してかなりナーバスになっていたようだ*16。
「長元記」、「土佐軍記」は、秀吉はこの四国仕置において、長宗我部氏に与した阿波・讃岐・伊予の「国持衆」、「国侍」*17をことごとく追放し、彼らが牢人になったことを伝える*18。いわゆる「天下統一」戦争で牢人を多数生み出すことは必然だった。彼らをどのように体制内に包摂するか、あるいはその埒外に置くか、「惣無事」を掲げる政権のアキレス腱になったことは想像に難くない。