日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正12~13年の秀吉と脇坂安治の心温まる文通

 

兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵の龍野神社旧蔵文書には秀吉が脇坂安治にあてた朱印状が多数残されている。これらの文書は火災に遭ったがさいわい焼失はまぬがれ、修復作業を経て2016年に公開された。そのいきさつについてはこちらを参照されたい。

 

www.hyogo-c.ed.jp

 

このうち天正12年から翌13年にかけての朱印状の、叱責と督励の文言に注目してみたい。「血気盛んだが地味な作業にやる気が出ない」安治と、「沙汰の限りである」と激怒しつつも決して見捨てず、一人前に育てようと努める秀吉の、2年にわたるハートウォーミングな文通である。それらを一覧にしたのが下表である。

 

Table. 天正12~13年脇坂安治宛羽柴秀吉朱印状一覧

 

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天正12年9月17日(上表3) あたりから、秀吉は安治を叱責する。翌10月28日付(4)でも遅延するようなら成敗を加えると、安治の重い腰を上げるよう促しはじめる。11月12日付(7)では「沙汰の限り」*1と最大級の怒りの表現をとっている。この状況は翌年も続き、同13年閏8月7日付(17)からは安治が返事を出し渋っていることも読み取れる。

 

しかし、9月1日には彼に摂津国に1万石を与え(23)、同月中に淡路国の「指出面寄帳」という2020年時点で秀吉最古の検地帳を授けており(24)、決して秀吉は安治を見捨てなかった。

 

実はこの間、閏8月13日付で神子田安治および妻子を放逐する旨の朱印状を発しており(21)、秀吉がことのほか鷹揚であったわけではない。上述の龍野神社旧蔵文書が「発見」されるまで重要な部分が破損していたが(下線部分)、2016年報道されたように実に興味深い文言であるので掲げておこう。

 

 

 

(前略)仍神子田半左衛門尉事、対主君口答、剰構臆病、背置目奴原思召出候へ者、御立腹不浅候之条、高野をも相払候、成其意、半左衛門尉事ハ不及申、不寄妻子共一人成共於拘置者、其方共以分国中*2可追払候、同秀吉違御意候輩、如信長時之、少々拘候へとも不苦、空憑*3於許容者、旁*4可為曲事候(後略)

 

 

(書き下し文)

 

よって神子田半左衛門尉こと、主君に対し口答えし、あまつさえ臆病を構え、置目に背く奴原と思し召し出でそうらえば、ご立腹浅からず候の条、高野をも相払い候、その意をなし、半左衛門尉ことは申すに及ばず、妻子どもによらず、ひとりなりとも抱え置くにおいては、そのほうども分国中をもって追い払うべく候、同じく秀吉御意に違い候ともがら、信長の時のごとく、少々抱えそうらえども苦しからずと、空頼み許容においてはかたがたもって曲事たるべく候

 

 

 

「抱え置く」とは「匿う」ことで、中世武家社会の慣習であり、この延長線上に鎌倉東慶寺を代表とする「縁切寺」があったと言われている*5。しかし秀吉は「信長時代とは異なり、多少は目をつぶってくれるだろうと高をくくってはならない」と釘を刺す。ある意味信長が中世的なルールに寛容であったのに対し、秀吉はそれをここで否定する。

 

自分に対して「思し召し出で」、「ご立腹」、「御意」といった自敬表現も、「信長の時のごとく」と好対照をなしている。

 

神子田に対しては妥協の余地ない仕打ちであるが、脇坂安治にはほぼ1年半も「温かく」見守っている。また安治の方も何度も日延べしたり、返事を出し渋ったり、越中の佐々成政討伐に出陣してみたいだの言い出していて(12)、現実逃避を試みるところが現代と変わらずとても好感が持てる。

 

 

*1:「沙汰の限り」も「沙汰の限りにあらず」も同じ意味で「言語道断である」、「もってのほかである」の意

*2:領地

*3:ソラダノミ、実現するあてのない期待をすること

*4:以脱カ

*5:現代のシェルターで「無縁所」=アジールとされる