日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

NHKスペシャル 「大江戸」 第1回の問題点 3 奉公人の存在

 

今回は「奉公人」について述べる。

 

まずは数年前メディアで話題となった新発見の藤堂高虎宛小堀遠州書状を見てみよう。

 

史料 寛永3年12月17日藤堂高虎宛小堀正一書状

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(翻刻文)

 

一、上方相替事無御座候、京

いなかともニ民百性・町人

奉公人まても米無之、迷惑*1

仕躰と相聞え申候

 

(書き下し文)

 

一、上方相替わることござなく候、京・田舎ともに民百姓・町人・奉公人までも米これなく、迷惑仕るていと相聞こえ申し候、

 

(大意)

 

一、上方はかわったこともなく平穏です。都・田舎ともに民百姓・町人・奉公人にいたるまで米が入手できず困っているとの噂です。

 

 

「民百姓・町人」とともに米を買わねばならない人々に「奉公人」の存在が確認できる。

 

一方番組の根拠となる史料には「日雇」の文言が見える。そのすぐあとに保証人を意味する「請人」という文言もあるが、この日雇はなぜか再現ドラマに登場しない。

Fig. 「会所惣国日雇請人」

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「日雇」については機会を改めたい。

 

米を生産する百姓は年貢上納後、手許に余剰が残る者、ギリギリの者、借金をしなければ食っていけない者など様々な階層に分かれている。古典的な研究を引用しておこう。

 

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今回確認できたことは「奉公人」と呼ばれる者が「百姓・町人」と同様に米不足に悩まされていたことである。では「奉公人」はどのようにして収入を得ていたのか、次回以降考えたい。

 

 

*1:困窮する

NHKスペシャル 「大江戸」 第1回の問題点 2

さてまず①の「 サムライが築いた」の意味するところを考えてみたい。

 

言い換えると中近世移行期における「侍」とは何かという問題である。様々な意味で使われるため一言で説明することは困難であるし無意味でもあり、結局史料の文脈ごとに個別に判断せざるを得ないのだが、すくなくともつねに「侍=武士」という等式が成り立つわけではないことだけは確かである。豊臣・徳川政権の法令に現れる「侍」に限れば、平時は郷村にあって戦時は戦闘員として合戦に臨む「奉公人」のことと理解されており、特定の主家に代々仕える譜代の被官=武家ではない。

 

譜代の被官はこの時期多くは「給人」と呼ばれている。本番組は「サムライ」を給人の意味で用いているが正確ではない。

 

史料1 文禄3年7月16日豊臣秀吉朱印状(島津家400号)

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(書き下し文)

 

①右御検地につき、諸侍・百姓以下他国へ失せ走る族これあるにおいては…

 

諸給人知行分、検地のうえにて引き片付け、所を替え相渡さるべくの条

 

 

傍線部①は検地を行う際、他国へ逃散する者として「諸侍・百姓」を挙げ、これを捕縛せよと命じる。つまり「侍」は百姓とともに検地を忌避する者の呼称なのである。

 

一方②は検地をした上で「諸給人」の所替えを行えとあり、土地を宛行われる武士であって島津家家臣を秀吉は「諸給人」と呼んでいたのだ。「侍」と「給人」の違いは歴然たるものがある。

 

 

史料2 細川忠興書状(「大日本近世史料 細川家史料」3097号)

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当の細川忠興も「給人」と「侍・百姓」を区別している。

 

 

(書き下し文)

 

①春中雨繁くござ候て麦腐り、給人も当て違い*1百姓も飢え*2申す躰にて候、遠国いずれも同然と聞こえ申し候、

 

②われら国も侍・百姓の兵粮続け申すべくようござなきゆえ、金銀・馬の飼*3などを遣わし、飢ゆるか飢えざるほどの儀にて候、

 

 

 

①は雨天のため麦が根腐れを起こして、給人は上納されるはずの穀物の当てがはずれ、上納すべき百姓は餓死しているという、給人と百姓の立場の違いを意識した記述である。

 

②は「侍・百姓」が食うに困り、貯えていた金銀や馬の餌代まで遣ってギリギリしのいでいる状況で「侍」と「百姓」が同じ境遇にあることを示している。

 

このことから「侍」は「給人」ではなくむしろ「百姓」に近い生活をしている者の呼称と解するのが無難である。

 

番組の趣旨に戻れば、細川家中ならば「サムライ」ではなく「給人」と呼ぶべきであるし、史料中に「侍」という文言があるならば「侍・百姓」を包括する用語を用いるべきである。不用意な言葉遣いは誤解のもとである。

 

ちなみに寛永13年は細川家が江戸城の普請を務めた年である。

*1:当てが外れて

*2:カツエ

*3:カテ

NHKスペシャル 「大江戸」 第1回の問題点 1

 NHKスペシャル「大江戸」は時代劇としては面白いが、史実=再現ドラマかと問われると首を横に振らざるを得ない。好評だそうだがあくまでもフィクションとして楽しみたい。以前にも疑義をはさんだことがあるが、最大の問題はどこまでが史実の復元でどこからがフィクションなのか、番組を見た限り明確な線引きがなされていない点にある。このドラマには近世史の重要な論点でありながら、世間でよく誤解されている俗説にもとづいた事柄が多く含まれているので訂正しつつ近世史入門の教材としてリユースしたい。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

さてNHKのサイトには以下のようにある。

 

 

第1集 世界最大!!サムライが築いた“水の都”

 

第1集は、巨大都市建設の物語。小さな田舎町だった江戸は、徳川家康が幕府を開いてから100年ほどで、世界最多100万の人口を抱える大都市に成長した。その原動力はどこにあったのか? 最近、江戸初期の都市計画を描いた最古の図面や、幕末期の江戸を写した写真が見つかるなど新たな発見が相次ぎ、その変遷が詳しく分かってきた。江戸は、水を駆使して造り上げた、世界に類をみないユニークな都市だった。巨大な“水の都”江戸誕生の秘密に迫る。

 

NHKスペシャル | シリーズ 大江戸第1集世界最大!! サムライが築いた“水の都”

 

 まずタイトルの①が挑発的である。日本近世史研究に対する挑戦と言うべきかもしれない。中近世移行期における「侍」とはなにか、1980年代以降一般向けの新書などでも必ず触れられる論点であるが、どうも世間では誤解されたままという雰囲気がある。再現ドラマはこの誤解と予断に基づいてつくられたようである。

 

その根拠の一つは、細川家中の者が石切や運搬に従事したという文言のある史料を提示していないことにある。高解像度カメラでとらえた江戸城の石垣にある各大名家の刻印からそう断定したようだが、大名家が公儀普請を請け負ったからと言って家中がその労役に従事するわけではない。武家は軍役(戦闘員)、百姓は陣夫役(非戦闘員・陣地の構築など)というように近世の身分は負担すべき「役」と対応するので、軍役を務めるべき武家が百姓が担うべき陣夫役に従事することなど近世社会の根本原理の否定である。おそらく社会構造、慣習や公儀普請の人足徴発がいかなる手続きで行われるのか無関心であるためであろう。

 

次回以降「侍」とは何か「役」とはなにか史料に即して述べていきたい。

 

年貢割付状と年貢皆済目録

 

どうも地方(じかた)文書に対する認識の甘い某国営放送だが、近世古文書学の教科書である『概説古文書学近世編』(吉川弘文館、1989年)から年貢割付状と皆済目録の部分を引用しておく。

 

割付状

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上は文禄4年9月1日付の年貢割付状であるが、11月中にすべて納めよ。そうでなければ郎党を村に送り込み、牢にぶち込んでやると述べている。このようにあらかじめ日限までに完納せよと命じるのが年貢割付状である。ちなみに「渋沢敬三」とは渋沢栄一の孫にあたる民俗学者である。

 

皆済状

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こちらは「物成」(年貢)その他「浮役」、「小物成」などをすべて納めた証拠となる重要な公的文書である。これらを私的な書状と呼ぶのは公私混同も甚だしいと言うべきであろう。

 

japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com

 

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この番組の言う「年貢取立ての記録」が割付状でも皆済目録でもないことはこれで明らかである。

 

天正15年10月13日有馬晴信(カ)宛豊臣秀吉朱印状

 

肥前国一揆等端〻*1令蜂起之由候、指儀*2雖不可有之候、迚*3御人数被遣儀候条、卒尓*4之動不可仕候、小早川左衛門佐*5・黒田勘解由*6・森壱岐守*7久留米*8ニ在之事候、毛利右馬頭*9早速可着陣候条、無越度*10様専一候、 御人数之儀者、左右次第追〻可被遣候、其上和州大納言*11・近江中納言*12被差越、唐国迄も可被仰付候九州事、五畿内同前ニ被思召候条、可成其意候、猶石田治部少輔*13可申候也、

   十月十三日*14(朱印)

      有馬左衛門大夫とのへ*15

(三、2342号)

 

 (書き下し文)

 

 肥前国一揆などはしばし蜂起せしむるのよし候、指したる儀これあるべからず候といえども、とても御人数遣わる儀に候条、卒尓の動き仕るべからず候、小早川左衛門佐・黒田勘解由・森壱岐守、久留米にこれあることに候、毛利右馬頭早速着陣すべく候条、越度なきよう専一に候、 御人数の儀は、左右次第追〻遣わさるべく候、その上和州大納言・近江中納言差し越され、唐国までも仰せ付けらるべく候九州のこと、五畿内同前に思し召され候条、その意をなすべく候、石田治部少輔申すべく候なり、

 

(大意)

 

肥前国のあちらこちらで一揆が蜂起しているとのこと。大したことではないと思いますが、多数を派兵しますので軽率な行動に出ないようにしてください。隆景・孝高・毛利吉成が久留米城に在陣しています。輝元も早々に着陣することでしょうから、越度のないようにすることが肝心です。軍勢は状況をみて派兵しますし、秀長と秀次を派遣し、唐まで支配するように命じるつもりです。九州仕置は五畿内と同様にすべきと考えていますのでお心得下さい。なお詳しくは三成が口頭で申し上げます。

 

 

大友義統・立花宗茂・筑紫広門・鍋島直茂・波多信時・龍造寺政家あてにも同日付でほぼ同文の文書が発せられている*16。ただし、秀長・秀次のあとに「備前宰相」(宇喜多秀家)の名が見えることや取次役に石田三成の名前が記されていないなど多少の異同はある。

 

 Fig. 肥前国一揆関係図

 

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                   『日本歴史地名大系 長崎県』より作成

肥後国人一揆と対峙していた秀吉軍だったが、後方の肥前国人の西郷信尚が伊佐早(諫早)城を奪還しようとした。これを秀吉は「肥前国一揆」*17と見做したわけである。秀吉はこの時肥後と肥前の二正面作戦をとらざるを得なくなった。これまで在地に対して中世的秩序*18を温存する漸進的な態度をとっていた秀吉だが、この事件を契機に下線部③に見られるように九州も「五畿内同前に」支配すべきと態度を改めたようだ。

 

10月21日付小早川隆景宛朱印状では「一揆など撫で切りに申し付くべく候」*19、12月27日付同人宛判物で「逆意の族尋ね捜し、ことごとく成敗あるべく候、国郡荒し候ても苦しからず候*20と書き送り、郷村が荒廃しても構わないから翻意のある者は探し出し首を刎ねよと徹底的な殲滅作戦を命じている。

 

信尚の伊佐早奪還を「私戦」と見做す豊臣政権の「惣無事」とはこのようなかたちでも発動されるのだ。

 

下線部②の「唐国まで支配下に置くことになるだろう」とこの時点ですでに明言していることにも注意したい。

 

*1:ハシバシ。そこかしこ

*2:サシタル儀。否定をともなって「大したことなのない」、「これといって問題とすべきでない」

*3:トテモ。大変な

*4:ソツジ。軽率な

*5:隆景

*6:孝高

*7:毛利吉成

*8:筑後国

*9:輝元

*10:高木昭作「乱世」(『歴史学研究』574号、1987年、71頁)によると「越度」には頓死や戦死の意味もあるという

*11:豊臣秀長

*12:豊臣秀次

*13:三成

*14:天正15年

*15:晴信カ

*16:2343~2348号

*17:下線部①

*18:秩序をロシア語で言えばуклад=ウクラードになる

*19:2372号

*20:2407号