日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正15年9月26日深水長智宛豊臣秀吉朱印状

 

  去月廿九日九ヶ条*1之趣、今日廿六於京都具被加披見候、条〻示*2越候段、神妙思召候、
 

 一、其国一揆等令蜂起之儀、陸奥守*3背殿下*4御下知、国侍ニ御朱印之面知行等不相渡、既及餓死付、無了簡*5仕立*6之由候、并在〻検地俄申付、下〻法度以下猥故*7、百姓等及迷惑*8企一揆歟、陸奥守仕様無御分別*9候事、

 

、国侍共無異儀被立置、知行等宛行、在〻放火をも不被仰付候処、国侍百姓等、陸奥守才判*10悪ニ付てハ、目安状*11を以成共御理*12申上候者、早速可被仰付候処、一旦*13不申上、一揆起候事、不相届儀候歟事

 

、御朱印被下候国侍并一揆、依申様成敗可申付旨、各被仰出候条、成其意、弥相良*14忠儀専一候事、

 

、其方事律儀*15宏才*16段、被届御覧付て、本領*17事者不及申、新知*18被仰付候条、か様之砌、相良不存疎略段、勿論其方覚悟故候間、今更差忠儀共不被思召候、捧神文*19事、却如何敷*20、猶以諸事可入精事肝要候事、

 

為馬代*21、金子十両到来候、悦覚候也、

 

  九月廿六日*22(朱印)

       深水三河入道とのへ*23

 

 

 

 (三、2319号)
 
(書き下し文)
 
  去る月廿九日九ヶ条のおもむき、今日廿六京都においてつぶさに披見を加えられ候、条〻示げ越し候段、神妙に思召候、
 

 一、その国一揆など蜂起せしむるの儀、陸奥守殿下の御下知に背き、国侍に御朱印のおもて知行など相渡さず、すでに餓死に及ぶにつき、了簡なき仕立の由に候、ならびに在〻検地にわかに申し付け、下〻法度以下みだりゆえ、百姓ら迷惑に及び一揆を企つるか、陸奥守仕様御分別なく候こと、

 

、国侍ども異儀なく立て置かれ、知行など宛行い、在〻放火をも仰せ付けられず候ところ、国侍・百姓ら、陸奥守才判悪しきについては、目安状をもってなるとも御理申し上げそうらえば、早速仰せ付けらるべく候ところ、一旦申し上げず、一揆起こり候こと、相届かざる儀に候かのこと

 

、御朱印下され候国侍ならびに一揆、申し様により成敗申し付くべき旨、おのおの仰せ出だされ候条、その意をなし、いよいよ相良忠儀専一に候こと、

 

、その方こと律儀宏才のだん、御覧に届けらるるについて、本領のことは申すに及ばず、新知仰せ付けられ候条、斯様のみぎり、相良疎略を存ぜざるだん、もちろんその方覚悟ゆえに候あいだ、いまさらさして忠儀とも思し召されず候、神文を捧げること、かえっていかがわしく候、なおもって諸事精を入るべきこと肝要に候こと、

 

馬代として、金子十両到来し候、悦ばしく覚え候なり、

 

 
(大意)

 

 

  先月29日付の九ヶ条に渡る書面、本日26日に京都にて詳しく拝読しました。九ヶ条にわたり申し越してきたこと、感心なことと思います。
 

 一、肥後国の一揆などが蜂起するに至った件、成政が関白たる私の命に背き、国侍に朱印状にある知行地などを渡さず、すでに餓死に及ぶなど、無思慮な一部始終と報告を受けています。また村々へ検地を急に命じ、「下〻」=陪臣に至るまで無法状態ですので、百姓らが困窮しやむを得ず一揆を企てたのでしょう。陸奥守のやりようは限度を超えています。

 

、国侍たちに異存がないようにその地位を保全し、知行地などを充て行い、村々に火を放てとは命じていないのに、国侍・百姓ら、成政の統治が悪し様であることを、目安状にて異議申し立てすれば、すぐにでも止めるように命じたのに、一度も上申せず、一揆が武装蜂起したことは、成政の不手際と言うべきでしょう

 

、朱印状により知行地を安堵された国侍や一揆は、その言い分に応じて処罰を申し付けよと命じていますので、その趣旨にしたがうように。主君である相良長毎に忠義をつくすことにますます専念しなさい。

 

、その方が律儀で才気煥発であると聞き及んでいます。本領はもちろん、新たに知行地を与えます。こういうときに相良家を疎かにしないことはそなたも心得ているだろうから、いまさら特別に忠義立てせよとは命じません。起請文を書かせるなどかえっていかがわしく思われることでしょう。なお万事怠りなきように行うことが大切です。

 

馬代として、金十両届きました。嬉しく思います。

 

 

文書とは差出人(発給人)と請取人(受給人)が明記されているものをいい、最近よく聞く「古文書が発見された」というニュースのほとんどが文書(モンジョ)ではないので要注意である。一方でいわゆる教育勅語や終戦の詔勅は明記されていないものの「帝国臣民」に充てて天皇の名で発せられた文書である。後者の最後「朕が意を体せよ」と命令形であるのもそのためである。文書を読む際には誰が(Who)誰に対して(to Whom)何を述べているのかが重要で、本文を漠然と読むだけでは意味をなさなくなる。

 

詔書は天皇の名前で発せられる「直書」という形式を取るが、「綸旨」は「天気候ところなり」(天皇はこうお考えです)という「奉書」という形式を取る。本文書で秀吉はみずからのことを「殿下」と敬称で呼び、自身の考えを「思し召し」と表現している。こうした作法も心得ておかなければならないが、テレビや新聞ではこれがなおざりにされていることがほとんどである*24

 Fig. 肥後国球磨郡人吉城と深水周辺図 

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 

 

充所の深水長智は肥後国球磨郡人吉城主相良長毎の重臣である。人吉周辺は2020年7月、日本三大急流のひとつ球磨川*25の増水により浸水被害にあった場所としても記憶に新しい。

 ①は肥後国人一揆が起きた原因について成政が現地での対応を誤ったために起きたのだろうと述べている。従来の推測を踏襲しているが、肥後国人である長智に「寄り添う」ように言明することで現地に対する秀吉の「思いやりのある」、「寛大な」措置を仄めかしているのだろう。ここでは「誰に対して」述べているのかという点が重要で、もちろん多数派工作の一環である。検地を急いで行ったことなどを成政が秀吉の命に背いたこととして追及している。また「下〻以下法度みだりゆえ」というのはおそらく郷村への乱妨行為を指すのであろう。「乱妨」とは「乱暴をはたらく」ことではなく掠奪のことである。制圧した土地において自軍の兵士が掠奪や放火を行わないように、禁制と呼ばれる文書を大名が発することはよく知られる。

 

②でも「放火せよと命じていないのに」とあり上記の推測を裏付ける。中世後期の戦争においては勝利すると村々を焼き払うことがつねに行われており、「仰せ付けられず」という表現から見て秀吉もまた武力制圧した地を焼き払う命令を下していたようである。火はいったん燃え上がると人間の力では制御できなくなるため、安価で確実な唯一の大量破壊兵器であった*26

 

この一揆は自力救済の発動つまり郷村の自衛戦争でもあったのだ。藤木久志氏はこれを「生命維持装置」と呼んでいる。ただしこの自衛戦争は秀吉から見れば「惣無事」を脅かす「私戦」であり、豊臣政権にとって正統性を問われる危機でもあった。

 

2021年清水克行氏による解説つきで復刊された本書は戦国期を語る上で必要不可欠な必読文献である。

 

 

 

その一方で「惣無事」という「紛争の調停者」を自認する秀吉は、「目安状をもって」成政の統治がいかに「不法な」やり方であるか異議申し立てをすればそれに応じる用意があったと述べている。実力行使と紛争の調停はつねに隣り合わせなのである。

 

③は長智の主君である相良家に忠義をつくせと命じているが、④ではこの機会を狙って起請文を書かせると周囲から秀吉が「いかがわしく」思われるのでしないと断っている。これを長智への親しみを込めた正直な心境を綴ったとみるか、それとも「自分はいかに器の大きい人物であるか」を知らしめたかったと解すべきなのかその本音はわからない。

 

⑤は臣従する証しに馬を献上する習慣があったことを示す。実際には金10両だったのだが。

 

(追記)

ヨーロッパの家々が石造りであるのに対し東アジアの家は木造である。これに着目したのが第2次世界大戦における連合国軍、とりわけアメリカ軍部である。ドイツ東部のドレスデン爆撃に代表されるようにヨーロッパ戦線では、爆発によって建物を破壊する手法が採られたのに対して、日本本土への空襲は焼夷弾という燃焼促進剤を投下して火災を発生させる手段が採用された。焼夷弾は爆撃機から投下したのち、その砲弾からさらに多数の焼夷弾が放出されるクラスター爆弾というしくみを採用していた。爆撃機にとって敵陣の領空に留まる時間を短縮させることができる点でリスクが低減され、破壊力は逆に増えるという点でクラスター爆弾は効率的なのである。クラスターとはブドウなど果実の房のことで、そこから派生して集団などを意味するようになった。ちなみ「スーパースプレッダー」の「スプレッド」は表計算ソフトの英語、「スプレッドシート」の「スプレッド」である。アメリカのドラマ「HAWAII FIVE-0」と「NCIS LA」のクロスオーバーエピソードで、天然痘に感染した人物がホノルルからLAへ向かう航空機に搭乗する。このことを知らされたクリス・オドネル演ずる「G.カレン」と LL・クール・J演じる「サム・ハンナ」が「クラスター」、「爆弾(BOMB)」と嘆くシーンがある。

 

閑話休題、対日戦争時アメリカ軍はユタ州ダグウェイ実験場に東京の下町を再現した「日本村」をつくり、焼夷弾の実験を重ねた。この燃焼タイプの爆弾はその後の戦争でも使用され、とりわけベトナム戦争を象徴する兵器として、枯れ葉剤とともにナパーム弾はよく知られるようになる。

*1:深水長智が秀吉に差し出した文書、未詳

*2:告げ

*3:佐々成政

*4:秀吉

*5:思慮

*6:一部始終

*7:「下〻」は家臣団に編成されている者の末端まで。「百姓」などは含まれない。百姓には遵法を期待せず、「保護」する対象である

*8:困窮し

*9:「御分別」は秀吉の判断。「ご分別なく」は考慮する余地もない、「是非に及ばず」、「沙汰の限り」と同意

*10:裁判/宰判。支配する、統治する

*11:上申書

*12:オコトワリ。事情を説明すること

*13:一度

*14:長毎

*15:正直者であること

*16:才能がある

*17:本貫地

*18:新恩給与

*19:神仏に誓約する文書、起請文

*20:イカガワシク。いかがわしいこと

*21:バダイまたはウマシロ。馬を送るかわりに主君へ金銀を送ること

*22:天正15年

*23:長智

*24:もっとも本文に記載されている出来事の前後関係すら混同しているケースもあるのだが

*25:残る二つは最上川と富士川

*26:追記参照

天正15年9月21日小早川隆景宛および鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状

 

(史料1) 

 

去八日書状并安国寺*1紙面之通、今月廿一日於京都加披見候、然者其方久留米へ相越、先之様子被聞合之由尤候、誠去年以来長〻在陣、其許可有付*2内、無幾程出陣之儀、辛労之段痛入候、先書如仰遣候、陸奥守*3肥後国侍ニ朱印之面知行等依不相渡候歟、俄検地申付、百姓以下及迷惑*4候歟、企一揆之段、陸奥守所行*5、沙汰之限候、就其行*6等之儀、藤四郎*7・安国寺かたへ申遣、不可有由断候、森壱岐守*8・黒田勘解由*9罷立之由候間、是又遂相談可然候、龍造寺*10・立花*11・筑紫*12・鍋島*13かたへも被成御朱印候、猶得其意可申聞候也、

   九月廿一日*14(朱印)

      小早川左衛門佐とのへ*15

  

(三、2307号)

 (史料2) 

 

肥後面之儀、早速相動、抽粉骨之旨、従安国寺かた申越、被聞召候、神妙思召候、春以来永〻在陣之上、無幾程出陣之儀、被痛入候、陸奥守国侍共*16ニ朱印之面知行等依不相渡候歟、又頓*17検地申付、百姓等迷惑仕候様ニ在之故候哉、一味同心ニ企一揆之段、沙汰之限思召候、陸奥守不相届*18儀者、中/\*19不被及是非*20、然者行等之事、藤四郎・安国寺申談、弥可入精事肝要候、人数入付者、追〻可被差遣候条、丈夫令覚悟、不可有由段候也、

   九月廿一日*21(朱印)

      鍋島飛騨守とのへ*22

(三、2309号)

(書き下し文)

 

 (史料1) 

 

去る八日書状ならびに安国寺紙面の通り、今月廿一日京都において披見を加え候、しからばその方久留米へ相越し、先の様子聞き合わさるの由もっともに候、まことに去年以来長〻在陣、そこもと有り付くべきうち、いくほどなく出陣の儀、辛労の段痛み入り候、先書仰せ遣わし候ごとく、陸奥守肥後国侍に朱印の面知行など相渡さざるにより候か、にわかに検地申し付け、百姓以下迷惑に及び候か、一揆を企つるの段、陸奥守所行、沙汰の限りに候、それについて行などの儀、藤四郎・安国寺方へ申し遣わし、由断あるべからず候、森壱岐守・黒田勘解由罷り立つの由に候あいだ、これまた相談を遂げしかるべく候、龍造寺・立花・筑紫・鍋島方へも御朱印なされ候、なおその意を得申し聞くべく候なり、

 

 (史料2)

 

肥後おもての儀、早速相動き、粉骨を抽くの旨、安国寺方より申し越し、聞し召され候、神妙に思し召し候、春以来永〻在陣の上、いくほどなく出陣の儀、痛み入られ候、陸奥守国侍どもに朱印の面知行など相渡さざるにより候か、またやがて検地申し付け、百姓など迷惑仕り候ようにこれあるゆえに候や、一味同心に一揆を企つるの段、沙汰の限りに思し召し候、陸奥守相届ざる儀は、なかなか是非に及ばれず候、しからば行などのこと、藤四郎・安国寺申し談じ、いよいよ精を入るべきこと肝要に候、人数入るについては、追々差し遣わさるべく候条、丈夫に覚悟せしめ、由段あるべからず候なり、

 

(大意)

 

 (史料1) 

 

先日八日付の書状ならびに安国寺よりの書面の通り、今月廿一日京都において拝読しました。そなたが久留米へ移り、前線の様子をお聞きになったとのこと喜ばしい限りです。実に昨年以来長期にわたる在陣で、本来なら安住すべきところ、ほどなく出陣したこと、ご苦労なことです。先日の書面に伝えましたとおり、陸奥守肥後国侍に朱印状の書面にある知行地などを渡さなかったせいでしょうか、すぐに検地を命じ、百姓以下を困惑させたせいでしょうか、一揆を結ぶにいたったこと、成政のとんでもない不手際です。それについての作戦など、秀包や恵瓊に申し伝えましたので、くれぐれも油断のないように。吉成・孝高も出陣するとのことですので、彼らともよく相談して下さい。政家・宗茂・広門・直茂方へも朱印を発しましたので、お含み置き下さい。

 

 

(史料2)

 

肥後方面のこと、早速作戦を開始し、ご活躍の件、恵瓊より報告があり、耳に届いております。実にすばらしいことです。この春以来長期にわたって在陣した上、幾日もなく出陣されたこと、恐れ入ります。成政が国侍たちに朱印状の書面にある知行など渡さなかったためでしょうか、またすぐに検地を命じ、百姓などが困窮するようにしたためでしょうか、一味同心して一揆を結ぶにいたったこと、実にけしからぬことだと思います。成政の不調法は、もはや議論する余地もありません。そういうわけですので作戦などについては、秀包・恵瓊と相談し、入念に行うことが大切です。軍勢が必要なときは、近々派兵しますので、大丈夫と過信することなく油断のないようにしてください。

 

Fig. 筑後国・肥前国・肥後国周辺図 

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

史料1・2ともに下線部でにわかに検地を命じ、百姓たちを困窮させた成政の罪は重いと断じている。

*1:恵瓊

*2:安住する

*3:佐々成政

*4:「迷惑」は今日的には他人に迷惑を及ぼすことをいうが、ここでは「迷い惑う」=困窮する・途方に暮れるの意

*5:行い、振る舞い、所業

*6:テダテ、作戦

*7:小早川秀包

*8:毛利吉成

*9:孝高

*10:政家

*11:宗茂。2308号

*12:広門

*13:直茂。2309号、史料2

*14:天正15年

*15:隆景

*16:「子共」、「野郎ども」とおなじ複数形を作る接尾辞

*17:ヤガテ。すぐに

*18:行き届く

*19:とうてい~できない

*20:是か非か議論するような段階ではない

*21:天正15年

*22:直茂

天正15年9月19日小早川隆景宛豊臣秀吉判物

 

去五日書状安国寺*1*2進之旨、加披見候、然者其方久留米*3へ相移、先勢至南関*4着陣之処、城中入相之由尤候、先書*5如被仰遣候、陸奥守*6背(闕字)御朱印旨、国侍ニ知行不相渡候哉、如此仕合、無是非次第候、就其条〻安国寺かたへ被仰遣候間、得其意、彼国侍共申分聞届、随其*7可被及行*8、毛利右馬頭*9も其方一左右次第、立花*10迄出馬可然候、黒田勘解由*11・森壱岐守*12も其面罷越、可遂相談之由、被仰遣候*13、猶追〻住*14進待覚*15候也、

 

  九月十九日*16 (花押)

    小早川左衛門佐とのへ*17

 

(三、2304号)
 
(書き下し文)
 
去る五日の書状安国寺注進の旨、披見を加え候、しからばその方久留米へ相移り、先勢南関にいたり着陣のところ、城中入相うの由もっともに候、先書仰せ遣わされ候ごとく、陸奥守御朱印の旨に背き、国侍に知行相渡さず候や、かくのごとくの仕合わせ、是非なき次第に候、それについて条〻安国寺方ヘ仰せ遣わされ候あいだ、その意を得、彼の国侍ども申し分聞き届け、それにしたがいてだてに及ばるべく候、毛利右馬頭もその方一左右次第、立花まで出馬しかるべく候、黒田勘解由・森壱岐守もそのおもてへ罷り越し、相談を遂ぐべきの由、仰せ遣わされ候、なおおいおい注進待ち覚え候なり、
 
(大意)
 
 今月5日付の書状、安国寺恵瓊が持参し拝読しました。そなたが久留米城へ移り、先陣が南関城に着陣したところ、城内で恵瓊と出会ったとのこと、もっともなことだと思います。9月7日の判物で申しましたように、成政が秀吉の命に背いて肥後国人たちに知行地を渡さなかったのでしょうか、このような深刻な事態にいたり、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。その件についてこまごまと恵瓊に託していますのでお聞き下さい。肥後国人たちの言い分をよく聞き、それにより軍事行動に及ぶべきかを判断して下さい。輝元もそなたの下知次第立花城まで進む手筈になっています。孝高・吉成へもそなたのもとへ出向き、相談しなさいと伝えております。なお、後日の報告をお待ちしています。
 

 Fig.1 筑前・筑後・肥後国周辺図

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                   『日本歴史地名大系 福岡県』より作成

Fig.2 肥後国南関城(大津山城)周辺図

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

①は、9月7日隆景宛判物に「陸奥守、国衆または百姓以下へ当たり様悪しく候や」(成政が秀吉の命に背いて、国衆や百姓たちへ悪し様に接したせいだろうか)*18と記したように、成政が国衆たちに知行地を渡さなかった=上前をはねた・ピンハネしたため今日の不始末を招いてしまったのだと繰り返している。本文書も「候や」と断定していない点は踏まえておきたい。

 

繰り返しになるが、成政の国衆(国人)や百姓への対応が「悪かった」=検地を強行したことが一揆の原因であり、それこそが成政の越度であるとする。

 

②では国人たちの主張に耳を傾けるように述べており、それにより軍事的に制圧してしまうハード・ランディングか、懐柔するソフト・ランディングかを判断せよとふたつのプランを提示している。ハードランディングはチャレンジング(やりがいのある)であるかもしれないが、チャレンジング(困難な・茨の道)でもある。

 

 

*1:恵瓊

*2:

*3:肥前国、図1参照

*4:肥後大津山城。別名舞鶴城・南関古城など。図2参照

*5:2291号

*6:佐々成政

*7:状況に応じて

*8:テダテ。策略、作戦

*9:輝元

*10:筑前国、図1参照

*11:孝高

*12:毛利吉成

*13:2303号

*14:

*15:思う

*16:天正15年

*17:隆景

*18:2291号

天正15年9月13日毛利吉成・黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

 

去月廿七日之書状、今日十三於京都加披見候、肥後面之儀、入精切〻註進、遠路之処悦思召候、殊遣検使、小早川藤四郎*1・龍造寺*2、其外肥前・筑後之人数相立之由尤候、隆景*3者くるめ*4城ニ有之、先手之者一左右次第、無緩可相動候、先書*5如被仰遣候、陸奥守*6天下背御下知*7、国侍共ニ御朱印之面*8知行をも不相渡付、堪忍不成之故*9、構別心儀候、領知方糺明之儀も、先成次第ニ申付*10、至来年致検地、いかにも百姓をなてつけ*11、下〻有付*12候様ニと度〻被加(闕字)御意候処、さも無之、法度以下猥成故、一揆蜂起候、彼是以無是非次第候、縦被仰付之旨申付、其上にて不慮出来候共、越度ニハ成間敷候処、条〻背御下知付而如此候、人之上にてハ在之間敷候条、能〻令得心*13、守御法度旨、万事申付可然候、肥後之儀者取分*14何之御国〻よりも被入御精*15、静謐ニ被仰付候処*16、無幾程及錯乱、助勢を乞候事沙汰之限候、肥後国侍共、今度対陸奥守別心之儀、相尋可言上之由、先書*17被仰出候間、弥申聞、申分於有之者重而可申越候也、

   九月十三日*18(朱印)

      黒田勘解由とのへ*19

      森壱岐守とのへ*20

(三、2303号)

 

(書き下し文)

 

去る月二十七日の書状、今日十三京都において披見を加え候、肥後おもての儀、精を入れ切〻註進、遠路のところ悦しく思し召し候、ことに検使を遣わし、小早川藤四郎・龍造寺、そのほか肥前・筑後の人数相立つるの由もっともに候、隆景は久留米城にこれありて、先手の者一左右次第、緩みなく相動くべく候、先書仰せ遣わされ候ごとく、陸奥守天下の御下知に背き、国侍ともに御朱印の面知行をも相渡さざるについて、堪忍ならざるのゆえ、別心を構うる儀に候、領知方糺明の儀も、先成次第に申し付け、来年に至り検地いたし、いかにも百姓を撫で付け、下〻有り付き候ようにと度〻御意を加えられ候ところ、さもこれなく、法度以下猥りなるゆえ、一揆蜂起し候、かれこれもって是非なき次第に候、たとい仰せ付けらるるの旨申し付け、その上にて不慮出来候とも、越度にはなるまじく候ところ、条〻御下知に背くについてかくのごとくに候、人の上にてはこれあるまじく候条、よくよく得心せしめ、御法度の旨を守り、万事申し付けしかるべく候、肥後の儀は取り分け何の御国〻よりも御精を入れられ、静謐に仰せ付けられ候ところ、幾程なく錯乱に及び、助勢を乞い候こと沙汰の限りに候、肥後国侍ども、このたび陸奥守に対し別心の儀、相尋ね言上すべきの由、先書仰せ出だされ候あいだ、いよいよ申し聞かせ、申分これあるにおいてはかさねて申し越すべく候なり、

 

(大意)

 

8月27日付の書状、今日13日京都において拝読しました。肥後の件、遠路にもかかわらず逐一報告し、うれしく思います。特に検使を遣わし、小早川秀包・龍造寺政家、そのほか肥前・筑後の軍勢を出発させたとのこともっともなことです。隆景は久留米城に在陣しており、下知あり次第、油断なく攻撃するように。7日付朱印状にて伝えたとおり、成政がこの秀吉様の命令に背いて、朱印状の文面にある知行地を国侍たちに渡さなかったのが耐え切れず、彼らは翻意したのです。領地についてよくただすことを最優先し、来年を待って検地に取りかかり、なんとしてでも百姓を憐れみ、下〻の生活が成り立つようにせよと、幾度となく命じていました。にもかかわらず、そうすることもなく、秩序が乱れたので、一揆を結んだ者たちが武装蜂起したのです。そうこうするうちにっちもさっちもいかない状態になってしまいました。命ぜられたとおり統治し、その上でたとえ不慮の出来事が起きても、不手際にはならなかったのに、逐一下知に背くのでこのような状況に陥ったのです。人の上に立つ者のすることではありません。よく説得し、御法度の趣旨を守り、万事怠りなく統治できるように。肥後は特に他国よりも入念に、落ち着くよう命じているのに、程なく混乱を招き、助力を乞うなどもってのほかの不始末です。肥後の国侍たちに、このたび陸奥守に対し背いた事情を尋ね報告するように、8日付の書面で伝えたとおりです。一層この点を国侍たちに聞かせ、言い分があるのならかさねて報告するようにしてください。

 

 

 

本文書は肥後国人一揆が起きた原因を秀吉なりに「分析」したものである。①では「天下の御下知」と秀吉の命令が公的立場からのものであること、成政が秀吉による本領安堵の朱印状を握りつぶした=上前をはねた・ピンハネしたことで武装蜂起にいたったと述べる。「太閤記」にも「領知の目録を知らざるは、受領せし甲斐もなし」(領知目録の存在を知らないのなら、受け取る価値もないだろう)と成政が考えたと記されている*21。この成政が上前をはねたことについては、本文書と「太閤記」の、すなわち秀吉側の言い分しかわからないので判断は保留しておく。秀吉が国人たちに発給した領知充行状を一覧にしたのが下表である。

 

Table. 天正15年5月30日肥後国人宛秀吉発給領知充行状

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 また以下のように、秀吉からの本領安堵に加え、成政らが独自に新恩給与として土地を与えている文書も残されている。

 

 

(参考史料1)

 

    御知行方目録

一、六拾九町三反 田畠出来分共   上宇部

一、参拾四町三反 田畠出来分共   内名村

一、四拾六町四反 田畠出来分共   万田村

   合百五十町者

右之内五拾町者、(闕字)御朱印之知百町者為新知、被仰付候、追而糺明之処可為惣領*22、仍如件、

              佐〻与左衛門尉

  天正十五年八月廿六日        重備花押

       小代下総守殿*23

             参

 

(書き下し文)

 

(下線部のみ)

 

右のうち五十町は御朱印の知、百町は新知として仰せ付けられ候、おって糺明のところ惣領たるべく候、よってくだんのごとし、

 

(大意)

 

右150町のうち50町は秀吉様より、百町は新恩給与として与えるものである。近日中に吟味するので知行しなさい。

 

 

 

 (参考史料2)

 

   加増知行目録

田方

一、五拾三町三段三丈       玉名郡 井手村

畠方

一、六町五反二丈             同所

田畠共

一、拾町壱段者             玉名郡 下長田村之内

    都合七拾町

右追糺明可為如惣領者也

  天正十五年十月日         成政 花押

        小代下総守殿

 

(書き下し文)

 

右おって糺明し、惣領のごとくたるべきものなり、

 

(大意)

 

右の田畠については近日中に吟味し、すべて領有するものとする。

 

Fig. 参考史料に見える小代氏知行地

 

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

 

検地を翌年に繰り延べし、百姓に対して慈悲深く接して生活が成り立つよう努めよと度々忠告していたとも記し、成政の不手際が招いたことだと断じているわけである。「撫で付け」という上位者が下位者を憐れむ文言が記されている点は興味深い。

 

②は秀吉の命ずるまま統治していれば、万一不慮の出来事が起きても成政の不始末にはならなかったのにと述べている。仮定の話なので、実際に命じられたとおり行って何か起きれば不手際とされる可能性は否定できないが、命に背いたことが致命的だったというのである。

 

③は肥後の国分を他国より入念に行ったのに、成政のおかげで台無しにされたとする。

 

以上はあくまで秀吉による「分析」であって、成政に責めを負わせるプロパガンダ的要素もあったであろう。社会的に、あるいは刑事的・民事的に制裁を加えることをもって原因究明とすること、すなわち追及(ツイキュウ)をもって追究(ツイキュウ)とすることは珍しくないからである。

 

なお文末にあるように、言い分があるのなら聞こうという「紛争の調停者」という姿勢も見せている点は重要であろう。  

 

*1:秀包

*2:政家

*3:小早川

*4:久留米

*5:2290号

*6:佐々成政

*7:秀吉の下知

*8:文書に書かれた内容

*9:不利な状況におかれて耐えられず

*10:まっさきに命じ

*11:撫で付け。上位者が下位の者を憐れむ、やさしく接して手懐ける

*12:ありつく、生活が安定する

*13:成政に納得させ

*14:トリワケ。特別に、格別の

*15:精を入れているのは秀吉

*16:落ち着く状態にしているのも秀吉

*17:2300号

*18:天正15年

*19:孝高

*20:毛利吉成

*21:小瀬甫庵『太閤記』岩波文庫版上巻、275頁

*22:土地をすべて領有すること

*23:親泰

天正15年9月8日毛利吉成・黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 於肥後国御朱印被下候*1国人之事*2

 

志岐兵部大夫*3

 

上津浦愛宮*4

 

栖本八郎*5

 

西郷越中守*6

 

赤星備中守*7

 

城十郎二郎*8父讃岐入道*9在大坂

 

伯耆次郎三郎*10在大坂

 

内空閑備前守*11

 

小代伊勢守*12

 

関城主*13

 

隈部但馬守*14

 

八代拾四人衆

 

同所参十人衆

 

阿蘇宮神主*15

 

右者共申分於在之者、可令言上候、最前(闕字)御朱印之旨無相違候処、自然企逆意候者、悉先〻*16追妻子共可被加御成敗之条、此面〻*17ニ能〻申聞、可申越候也、

   九月八日*18(朱印)

 

       森壱岐守とのへ*19

 

       黒田勘解由とのへ*20

 

 
(三、2300号)

 

(書き下し文)

 

 肥後国において御朱印下され候国人のこと

 

志岐兵部大夫

上津浦愛宮

栖本八郎

西郷越中守

赤星備中守

城十郎二郎、父讃岐入道大坂にあり

伯耆次郎三郎、大坂にあり

内空閑備前守

小代伊勢守

関城主

隈部但馬守

八代拾四人衆

同所参十人衆

阿蘇宮神主

 

右の者ども申し分これあるにおいては、言上せしむべく候、最前御朱印の旨相違なく候ところ、自然逆意を企てそうらわば、ことごとく先〻妻・子共を追い御成敗を加うらるべくの条、この面〻によくよく申し聞かせ、申し越すべく候なり、

 

(大意)

 

 肥後国において朱印状を下され本領安堵された国人のこと

 

(中略)

 

右の者のうちで異議がある者は上申させなさい。先日下された朱印状の趣旨通りに行うべきところ、万一逆意を構える者があれば、妻子をことごとく追い詰め、成敗すべきものである。この点を彼らによくよく申し聞かせ、状況を逐一報告しなさい。

 

 

 

列挙されている国人の本貫地を地図上にプロットしてみた。熊本の佐々成政を取り囲むように広汎に分布している。本文中にあるように彼らに秀吉は朱印状を発給し、本領安堵するなど漸進的で妥協的な措置をとった。しかし、成政は次回以降述べるように彼らの領分に検地を強行した。これは国人たちにとって「父祖伝来の」土地に土足で踏み込むも同然の所業である。

 

本文書は朱印状の趣旨を徹底し、異議があれば申し立ての機会を与え、それでも抵抗すれば妻子ともども攻め滅ぼすと、衣の下に鎧をちらつかせる最後通牒*21の意味をもつ。

 

Fig. 肥後国人勢力図

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                   『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

「禍福はあざなえる縄の如し」というが、赤星、城、名和などは上坂していたため一揆に加わらなかった。

 

さてこれまで9月8日付の文書をいくつか読んだ。下表のようにこの日発給された文書は少なくとも8通ある。豊臣政権にとって「もっとも長い一日」のひとつであったのだろう。

Table. 天正15年秀吉発給文書通数日別一覧

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                344通/355日=0.97通/日、秀吉文書集第3巻目次より作成

 

*1:朱印状により知行地を安堵された

*2:以下〇は秀吉に降伏、×は敵対、△は不在など

*3:鎮経、天草五人衆のひとつ、〇

*4:コウツウラ種直、同上、〇

*5:スモト親高、同上、〇

*6:未詳

*7:統家、菊池氏三家老のひとつ、△

*8:武房、同上

*9:城親基、△

*10:名和顕孝、△

*11:ウチコガ鎮照、×

*12:ショウダイ親忠、△

*13:大津山家稜=イエヒト、×

*14:親永、菊池氏三家老のひとつ、×

*15:阿蘇惟光、肥後国一宮阿蘇社の大宮司家、〇

*16:ゆくゆく

*17:国人たち

*18:天正15年

*19:毛利吉成

*20:孝高

*21:律令制で上下関係にない官庁同士でやりとりする文書を「牒」あるいは「移」と呼んだ。上申文書は「解」、下達文書は「符」という