日本史史料を読むブログ 

日本中近世史史料講読で可をとろう

徳川家康による井伊直政、織田信長、豊臣秀吉の人物評価に関する史料を読んでみる

將軍秀忠夫人淺井氏に輿へたる訓誡状(慶長十七年二月二十五日)

徳川義宣『新修徳川家康文書の研究』(1983年、吉川弘文館)439~466頁

 

 

 

(前略)

 一、井伊兵部事、平日言葉少く、何事も人にいはせて承り居,氣重く見へ申候得共、何事も了簡決し候へは、直に申者にて候、取わけ我等何そ了簡違か評議違か,爲にならぬ事は、皆人の居ぬ所にて物和らかに善悪申者にて候、それ故、後には何事も先、内相談いたし候樣に成申候、

 

  (中略)

 

一,堪忍の事、身を守るの第一に候、何事の藝術も、堪忍なくては致し覺へ候事もならぬものにて候,殊に一國を治めんと存候身は、一入心懸可申事に候、(中略)日本にては堪忍十全之者は、楠正成一人にて候、初より一向堪忍の氣なしと言葉にも出し行ひしは、近世武田勝頼にて候,夫故一生行ひ道に叶はす,先祖ょり數代の家を失ひ身を果し候、一織田殿は近世の名將にて、人をもよくつかひ大氣にて知勇もすくれし人にて候得共、堪忍七つ八つにて破れ候故、光秀の事も起り申候、太閤樣は古今の大氣知勇、至て堪忍強かリける故、卑賤ょり出,貳十年の中に天下の主にもなられ候程の事に候得共,あまリ大気故、分限の堪忍破れ候、大気ほとよき事はなく候得共、夫も人の身の程を知らす、萬事花麗を好み、過分に知行宛行、其外人に物施すも大氣にてはなく、奢と申ものにて候,知行其外施す品も、其分に當り候こそよく候、(以下略)

 

 

 

 

 

徳川義宣氏によれば「人の一生は重荷を負って云々」は天保年間までは徳川光圀の作と伝えられたが、幕末期に「東照神君台諭」と改変され、明治11年頃から旧旗本が偽書し、「東照宮御遺訓」と称したものだという。この史料が『大日本史料』や中村孝也『徳川家康文書の研究』に収載されなかった事情も、異例の長文であることや「文書」でなく編纂物であること以外にこのあたりにあるのではないかと指摘されている。もとより、この史料に書かれたことがすべて信用できるわけでないとしつつも、歴史学から排除すべき確証がない以上、検討すべきではないかとしている。

 

さて、この史料によれば家康の、井伊直政武田勝頼織田信長豊臣秀吉に対する人物評価が垣間見られ、興味深い。「おんな城主 直虎

で描かれた菅田将暉演ずる井伊直政は才気煥発という点で共通するが、寡黙というにはほど遠い。いずれにしろ、直政に対する家康の評価は高く、全幅の信頼を寄せていたことは確かなようだ。

 

「堪忍」を徳川氏は本来の自動詞である「堪え忍ぶ、我慢する、耐える」の意味と理解すべきと指摘する。信長は「大気」つまりおおようで、度量の広い人物だが、堪え忍ぶことがあまり出来なかったので光秀に「討たれるべくして」討たれた。つまり、光秀ではなくとも、安国寺恵瓊が予言したとおり、織田政権の基盤は案外脆弱だった、と家康は考えていた、というのはうがち過ぎであろうか。秀吉は分不相応に散在し、驕りがましき人物だったので権力の継承がうまくいかなかった。武田勝頼についてはずいぶんな言い方をしている。何か含むところがあったのだろうか。