東京大学史料編纂所「大日本史料総合データベース」で検索したところ興味深いものを見つけた。まだ刊行されていないので読んでみた。
文禄4年9月29日石田三成奉行板原彦右衛門・井口清右衛門宛年寄・行事証文
大仏橋通万寿寺中今度御(十二人)せいはい人之諸道具并くわんはく様御手かけ衆のあつけ物当町ニ一切無御座候、若隠置候ハヽ重而可被成御成敗候、如件、
文禄四年 年寄(印)
九月廿九日
行事(印)
石田治部少輔様
御奉行
板原彦右衛門殿
井口清右衛門殿
御尋被成候民部卿法印、以来之きつてとり申ものハ於当町ハ一人も無御座候、若かくしをき候ハヽ一町御セいはい被成、仍為其状如件、
文禄四年 重左衛門(花押)
九月廿九日 又衛門(花押)
与三(花押)
石田治部少輔様
御奉行
板原彦右衛門殿
井口清右衛門殿
(書き下し文)
大仏橋通万寿寺中このたび御(十二人)成敗人の諸道具ならびに関白様御手懸け衆の預け物、当町に一切御座なく候、もし隠し置き候はば、かさねて御成敗ならるべく候、くだんのごとし
文禄四年 年寄(印)
九月廿九日
行事(印)
石田治部少輔様
御奉行
板原彦右衛門殿
井口清右衛門殿
お尋ねなられ候民部卿法印以来の切手取り申す者は、当町においては一人も御座なく候、もし隠し置き候はば、一町御成敗成られ、よってそのため状くだんのごとし、
(大意)
大仏橋通、万寿寺の、このたび成敗された(十二)人の諸道具、および関白豊臣秀次様の側室の方々から管理を任されている物、当町には一切ございません。もし隠した場合は、今度こそ御処罰ください。
(中略)
お尋ねの件ですが、前田玄以様が京都奉行/京都所司代の御支配になってから(側室方から)預かっている者は、当町には一人もおりません。もし隠していた場合は、我々全員町ごと御成敗下さい。そのための証拠はこの通りでございます。
*くわんはく様:関白豊臣秀次。
*御手かけ衆:「御手懸け」は「めかけ」の意。「御手懸け衆」で側室たち。
*きつて:「切手」もともとは「切符」(きつぷ/きりふ)と「手形」を合わせた語で,証券,証書などの意。「日葡辞書」に「Qitte 何か物などの引渡しを命ずる証拠の紙,または書付」とある。
この史料は「太政官」と印刷された罫紙に書写されたものでただし書きと原文の違いがやや判然としないが、「楓軒文書纂所收諸家文書」から収載されたとある。
関白秀次が切腹させられたのち、側室の「預け物」という貸借関係が「町」との間にあったかを調べていたことを示している。石田三成の家臣と思われる板原、井口両名が実務にあたり、「町」という自治組織に誓約させている。その「町」の代表者が「年寄」「行事」であろう*。貸借関係すら連座の対象とする三成の徹底さと同時に「町」という自治組織を介してのいわば「町請」制度が成立していることを読み取ることができるだろう。
*ちなみに「年寄」は敬意を込めた呼称で、今日では相撲の「年寄」にのみそのニュアンスが残されている。「老」という字はもともと「おいぼれた」というネガティブな意味と「経験を積んでいる、すぐれている」というポジティブな意味をもつアンビバレントな言葉だったようだが、現代では多くの場合前者の意味で使われることが多いようだ。