日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

「鬱憤」を晴らすために合戦を行う織田信長

先日、長篠合戦の史料を紹介した際、「散鬱憤」という信長の文言を紹介した。池上裕子氏の指摘も気になるのでいつもお世話になっている東京大学史料編纂所の「古文書フルテキストデータベース」の「本文」にのみチェックを入れ「鬱憤」で検索してみた。

 

すると寛元元年から万延元年までで60件ヒットした。無論これがすべてではないが、うち6件が天正3年の信長文書だった(奥野高廣著書による文書番号は512、518、526、571、607、608号文書)。このうち512号文書は前回紹介したとおりだが、細川藤孝以外にも上杉謙信、村上国清、伊達輝宗佐竹義重、田村清顕へも同様のことを伝えている。つまり、対外勢力へも「鬱憤を散じ」と公言してはばからないのだ。よほど長篠合戦で武田勝頼を討ち取り損じたことが悔しかったとはいえ、ここまで本音を文書にしたためさせるとは驚きである。

 

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その後、さすがにまずいと思ったかどうかはわからないが、しばらくはそのような表現を避けていたようだが、6年後の天正9年復活した。

 

 

 

 936 能登長連龍宛黒印状 下巻612頁

於其国、最前謀叛之輩成敗付而、祝着之趣尤候、定可散鬱憤令察候、罷退候族何方隠居候共、追而可刎首之段勿論候、将亦、馬一疋糟毛、到来候、懇情喜入候、猶菅屋可申候也、

 八月十三日               信長(黒印*1)

   長九郎左衛尉殿

 

(書き下し文)

その国において、最前謀叛の輩成敗について、祝着の趣もっともに候、さだめて鬱憤散ずべきと察せしめ候、罷り退き候族いずかた隠し居き候とも、おって刎首を刎ねるべきの段もちろんに候、はたまた、馬一疋糟毛、到来し候、懇情喜び入り候、なお菅屋申すべく候也

 

*謀叛之輩:管領家畠山氏の家臣遊佐氏のこと。

 

*将亦:「もしくは」、「あるいは」という意味だが、ここでは「ところで」と話題を変える意味でないとおかしい。

 

*糟毛:馬の毛色の一種で白毛に黒毛または赤毛の混じったもの。

 

 

 

*懇情:親切な心配り。ここでは信長へ糟毛の馬を献上した長連竜の行為を指す。

 

*菅屋:菅家長頼(?~天正10年6月2日)二条御所で信忠とともに落命(谷口克広『織田信長家臣人名辞典』213~217頁)。

 

*八月十三日:奥野氏は天正9年に比定する。

 

*(黒印*1):奥野氏の分類では黒印1型、印文は「天下布武」。

 

*長九郎左衛尉:長連竜(天文15~元和5年2月3日)。能登の国侍で能登守護の重臣(谷口上掲書248~249頁)。

 

(大意)

能登の国で、まっさきに謀叛を起こした連中を成敗したことが、めでたいとの趣旨もっとものことです。きっと鬱憤を散じたことと察します。撤退したものどもはどこにかくまっていても、いずれ首を刎ねるべきとのことはもちろんです。ところで、馬糟毛一疋が到着しました。親切な心配り喜んでおります。なお詳しくは菅屋長頼が申します。

 

 

ここでは信長自身の心情ではなく、長九郎左衛門尉の胸の内を推し量って「さぞ鬱憤を晴らしたことでしょう」と述べている。信長の本音を仮託しているわけだ。

 

さて次回は時期は大幅に遡るが文明年間小早川氏の生け捕りの扱いについて見てみたい。文明年間といえば「応仁の乱」(応仁・文明の乱ともいう)で今もっともホットな時期のひとつである。