日本史史料を読むブログ 

日本中近世史史料講読で可をとろう

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正3年5月26日細川藤孝宛織田信長黒印状を読む

前回に続き長篠合戦直後に発給された信長の文書を読む。

 

 

   (五一二)天正3年5月26日長岡藤孝宛織田信長黒印状

去廿一日合戦之儀ニ付而、被申越候、如相聞候、即時切崩、数万人討果候、四郎首未見之候、大要切捨河へ漂候武者若干之条、其内ニ可有之歟、何篇、甲・信・駿・三之軍兵さのミ不可残候、近年之散鬱憤候、連々如申候、京都并江・越儀ニ付而、手前取紛候刻、信玄入道構表裏、忘旧恩恣之働候ける、四郎亦同然ニ候、無是非候き、何時も於手合者、如此可得太利之由、案ニ不違候、祝着候、此上小坂一所之事、不足数候、頓可上洛候間、猶期面之時候、恐々謹言、

     五月廿六日                               信長(黒印#1)

      長岡兵部太輔殿

(書き出し文)

去る二十一日合戦の儀について、申し越され候、あい聞け候ごとく、即時切り崩し、数万人討ち果て候、四郎首これをいまだ見ざる候、大要は切り捨て、河へ漂い候武者若干の条、その内これあるべきか、なにへん、甲・信・駿・三の軍兵さのみ残すべからず候、近年の鬱憤散じ候、つらつら申し候ごとく、京都ならびに江・越儀について、手前取り紛れ候きざみ、信玄入道表裏を構え、旧恩を忘れほしいままの働きそうらいける、四郎また同然に候、是非なくそうらいき、何時も手合においては、かくのごとくはなはだ利を得べくのよし、案にたがわず候、祝着に候、この上小坂一所の事、数に足らず候、とんに上洛すべく候間、なお期面の時に候、恐々謹言、

*四郎:武田勝頼

*河:長篠は寒狭川と三輪川の交わるところにある。

*甲・信・駿・三:甲斐国信濃国駿河国三河国

*軍兵:兵士

*さのミ:「然のみ」それほど~でもない、格別~でもない。

*近年之散鬱憤候:池上裕子氏はこの文言こそ信長の本性を表すものと指摘している(池上『織田信長』278頁、2012年、吉川弘文館)。

*連々:しきりに、何度も。

*江・越儀:近江国、越前・越中越後国の件。

*構表裏:「表裏」は陣立ての名称で、構えるとともに「表裏の陣立てを構え」から合戦を起こしの意と思われる。

*旧恩:織田氏と武田氏は何度も同盟を結んだり破棄したりしているので、同盟を結んだ際のことを恩着せがましく表現したもの、ではなかろうか。

*太:はなはだ

*小坂:大坂に対する蔑称。大坂本願寺のこと。

*頓:「とみに」「とんに」、急ぎ、にわかに。

*期面:面を期する:実際にお目にかかったとき、書状でよく使われる。

*(黒印#1):奥野高廣氏による黒印分類で1型。印文は「天下布武」(858頁)

 

(大意)

 

去る二十一日合戦の件について書状にてお尋ねがありましたが、(先日の書状で)申しましたように、即時に敵軍を切り崩し、数万人が討ち果てましたが、勝頼の首はまだ発見できません。敵軍の大半は斬り捨て、河に浮かぶ武者の死体も若干ありましたが、その中に勝頼の死体があるのでしょうか。どこの誰であろうと甲・信・駿・三の軍兵だけでなく残りなく処刑するつもりです。近年の鬱憤を晴らしました。何度も申しましたように、京都ならびに近江や北陸方面のことは、武田に関わってばかりで等閑になっています。信玄は合戦の備えを行い、これまでの同盟関係を裏切り、好きなように振る舞っていたそうですが、勝頼もまた同様です。仕方のないことです。いつの時代もああいう連中は、このように損得ずくで物事を判断するとのことは、容易に推察できることです。今回の勝利はめでたいことです。あとは石山本願寺の一件だけで、取るに足らないことです。急ぎ上洛いたしますので、お目にかかった際に詳しく申し上げます。恐々謹言。

前回読んだ文書では「天下安全之基」と称しながら、数日後には「近年之散鬱憤候」と本音を漏らす。対外的には前者を掲げるのだろうが、本当のところは鬱憤晴らしに合戦を行うと述べているところは興味深い。

さて本文中にあるとおり「数万人討果候」はさすがにプロパガンダであろう。前回の文書では「生捕已下数多」としているのに今回は「大要切捨」とあり、一貫性に欠けるところがある。また「切捨」とあるが鉄砲で討ち取った場合もこう表現するのか、それとも実態として刀や槍が主力だったのか気になるところであるが、どうも後者のような気がする。長篠合戦直後の認識はこのようなものだったのだろう。後に鉄砲が主力になると、前回の文書にある「鉄炮放」の文言から、意図の有無を問わず三段撃ちの「歴史」が成立していった可能性はある。