日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正20年9月3日福昌寺宛寺領目録・興国寺宛町田久倍書状案を読む 勘落

<史料1>  52.寺領目録   284*1 

(義久角印)

福昌寺領目録

 一、田方五拾弐町七段三畝二歩

  分米五百廿七石三斗六合六才

 一、畠方九町五歩大豆四拾五石二斗五升

 一、山畠卅四町八畝大豆六拾石九斗六升

     田畠山畑合九拾五町八段七畝二歩

  右分米大豆六百三拾四石八斗六升

         町田出羽守

  天正廿年九月三日   久倍*2(花押)

 

 

<史料2> 53島津義久袖判町田久倍書状案   284

 

   (義久袖印)

当国寺社領事、以御下知*3令勘落候、雖然異于他条*4、寺領目録在別紙奉如先々被仰付*5候、被令寺納*6、可被専興隆*7事肝要之由*8候、恐々謹言、

  天正廿年

   九月三日        町田出羽守

     興国寺          久倍判

 

   *傍線部は割註

 

鹿児島市史は以下からダウンロード可能

http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/index.html

 

(書き下し文)

当国寺社領のこと、御下知をもって勘落せしめ候、然りといえども他条に異なり、寺領(目録別紙あり)先々のごとく奉り仰せ付けられ候、寺納せしめられ、もっぱら興隆せらるべきこと肝要のよし候、恐々謹言、

 

(大意)

当島津家領国中寺社領の件、義久様の命により没収することとしました。しかしそうはいっても他の件とは異なり、寺領のことですから、以前からのしきたり通り寄進するとの仰せです。より一層島津家の繁栄を神仏に祈るようつとめなさい。謹んで申し上げました。

 

 

福昌寺、興国寺はいずれも薩摩国鹿児島郡にあった曹洞宗の寺院だったが、明治2年廃寺となった。位置は以下の通りである。

 

Fig.1 福昌寺・興国寺

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                 「日本歴史地名大系」鹿児島県より作成 

 島津氏、および町田氏の系図を掲げておく。

Fig.2 島津氏系図

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Fig.3 町田氏系図

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この2通は文書の最初「袖」に印が捺されている様式で、義久の権威を高めようとしたもので、主君の意思を町田久倍を通して寺社に伝える奉書形式をとっている。しかし、形式とは裏腹に内容はいったん「勘落」=没収した寺領を安堵していることがわかる。

 

秀吉から、8月14日*9社領を没収して「蔵入」=直轄地にせよと命じられた島津氏であったが、そう簡単にはいかなかったようだ。

 

史料2文中の「目録別紙あり」の「目録」は「鹿児島市史」に収載されていないが、史料1のようなものであったことは推測できる。これを見ると、島津氏による位付は「田方」「畠」「山畠」の三種類であった。

*1:番号、頁は「鹿児島市史第3巻」第3部 中世関係史料による

*2:島津家重臣 詳しくは『松元町郷土誌』第12章http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/201251016312.pdf

*3:義久の命

*4:ほかの件、他のこととは違い、寺領という大事なことだから

*5:「仰せ付け」の主語は島津義久

*6:寺に納入すること、そのもの、寄進

*7:盛んにする、ここでは島津家の繁栄を神仏に祈祷すること

*8:義久様はこう仰せです

*9:豊臣秀吉文書集 五」4231~4234号文書