就端午*1之祝詞*2、御帷子*3二并数〻帷*4五十到来、被悦思食候、島津事初居城諸城相渡、捨身命中納言*5陣取*6江懸入候条、不被及是非、被成御赦免、薩州千台川*7太平寺*8ニ被立御馬候、猶石田治部少輔*9・木下半介*10可申聞候也、
五月五日*11(朱印)
上京 *12
惣中
(三、2178号)
為端午之祝儀(以下略)
五月五日(朱印)
下京 *13
惣中
(三、2179号)(書き下し文)端午の祝詞について、御帷子二ならびに数〻帷五十到来し、悦び思し食され候、島津のこと居城をはじめ諸城相渡し、身命を捨て中納言陣取へ懸け入り候条、是非に及ばれず、御赦免なされ、薩州千台川太平寺に御馬立てられ候、なお石田治部少輔・木下半介申し聞くべく候なり、端午の祝儀として(以下略)(大意)端午の祝として帷子二つおよび様々な帳を五十お送り下り、悦びに堪えません。島津は居城をはじめ数々の出城を明け渡し、一命を捨てる覚悟で秀長の陣中へ駆け込んできましたので、一も二もなく赦免しました。薩摩の川内河畔にある泰平寺にて会う予定です。お礼の詳細は、石田三成・木下吉隆が口頭にて申します。
Fig.1 薩摩国高城郡泰平寺周辺図
Fig.2 上京と下京、洛中と洛外
Table. 五節供と西暦月日対応
註:上表から7月7日が現在の8月にあたり、梅雨が明けているので満天の星空に恵まれていたはずだっただろうことがわかる。天気予報などでは商業的理由からかこの誤解を解こうとしないフシがある。
本文書で注目したいのは充所の「上京/下京惣中」で、端午の節供のために上京・下京の「惣中」が贈答を行っていた。大名などの武家だけでなく「町衆」*14と呼ばれる人々ともこうした贈答慣行が成立していたようだ。さらに三成・吉隆が使者として赴いたことから蔑む態度は見られず、礼を重んじていたこともわかる*15。
上京・下京には二つの意味がある。地名としてのと、団体名としてのそれである。現在も地名(場所)を指す場合と行政体=地方自治体名を指す場合に区別されるが、ここでは後者の団体名としての「上京/下京」を意味する。文書や財産を管理し経営する主体である。二重の意味が込められていることももちろん多い。
ここで「行政体」という用語を用いたが、この行政体は古典的な「自然村/行政村」の図式でいえば自然村に近い。
ただし、上京・下京に住む住人全体ではなく、ごく限られた上層のみである点は留意したい*16。都市は口減らしや職や食糧を求めて絶えず人口の流入がある。こうした人々はもちろん数に入らない*17。
*1:陰暦5月5日に行われる五節供のひとつ。下表参照
*2:祝いの言葉
*3:カタビラ、夏用の着物
*4:トバリ、「帳」とも。空間を仕切るための布。「夜のとばりが下りる」という表現に名残を留める程度
*5:豊臣秀長
*6:「陣を構える」のように動詞的に使われることが多いが、ここでは「陣を構えた場所」
*7:川内川
*8:薩摩国高城郡泰平寺。図1参照
*9:三成
*10:吉隆
*11:天正15年
*12:図2参照
*13:図2参照
*14:「マチシュウ」または「チョウシュウ」
*15:もっとも、自身に敬語を使っている点も共通しているが
*16:具体的には町組に対して負担をしている者に限られる
*17:都市人口の増減には出生数から死亡数を引いた「自然増(減)」と人口流入から流出を差し引いた「社会増(減)」の二通りあり、現実にはこれの複雑な組み合わせとなる。前者は家族を営むことが前提であるが、後者は単身者が多い