日本中近世史史料講読で可をとろう

ただし、当ブログは高等教育課程における日本史史料講読の単位修得を保証するものではありません

日本中近世史料を中心に濫読・少読・粗読し、各史料にはできるだけ古文書学に倣い表題をつけ
史料講読で「可」を目指す初学者レベルの歴史学徒として史料を読んでいきます

天正14年11月2日加藤嘉明宛領知充行状・11月3日脇坂安治宛領知充行状・同知行目録・同蔵入目録

 

 

<史料1>

 

淡路国三原郡之内壱万弐千四拾五石、津名郡之内弐千九百六拾石、都合壱万五千石、令扶助訖、全可領知者也、

   天正十四年

    十一月二日(花押)

       加藤左馬助とのへ*1

 

(三、2005号)

 

(書き下し文)

 

淡路国三原郡のうち一万二千四十五石、津名郡のうち二千九百六十石、都合一万五千石、扶助せしめおわんぬ、まったく領知すべきものなり、

 

 

<史料2>

 

(包紙ウハ書)

「  脇坂中務少輔とのへ*2   」

 

淡路国津名郡のうち三万石、目録別紙*3相副、令扶助訖、全可領知者也、

  天正十四年

    十一月三日(花押)

      脇坂中務少輔とのへ

 

(三、2006号)

 

(書き下し文)

 

 淡路国津名郡のうち三万石、目録別紙*4相副え、扶助せしめおわんぬ、まったく領知すべきものなり、

 

<史料3>

 

(表紙:竪帳)

     天正十四年十一月三日

  あわちの*5国わきさか*6中務知行目録

                         」

 

Fig.1

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    たつの市立龍野歴史文化資料館『脇坂家文書集成』123頁より作成

 

     津名郡

一、参千四百五拾参石六斗          広田庄

一、弐千弐百八拾八石            庄下

 (中略)

一、四拾五石九斗              あん*7養寺

                   津名郡之内

一、五拾参石                いくわの内*8

   都合参万石

     以上

 天正十四年十一月三日(朱印)

       脇坂中務少輔とのへ

 

(三、2007号)

 

 <史料4>

 

(表紙:竪帳)

     天正十四年十一月三日

        わきさか中務御代くわん*9

  あわちの*10国御くら入もくろく*11      

                           」

 Fig.2

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                          同上書124頁より


 

   淡路国三原郡御蔵入目録

一、八百七拾九石          ゑなみ*12・こくか*13

一、参百弐拾石九斗         とくなか村*14

 (中略)

一、弐拾九石            桃川之内

                津名郡之内

一、八百弐拾七石          いくわ*15

(三、2008号)

 

 

 

史料3が脇坂安治宛の知行目録で、史料4が同人宛の蔵入地目録である。下線部③のように「わきさか中務御代くわん」が下方に置かれ、字も一回り小さく書かれている。これは秀吉の蔵入地に対する敬意を表している。また以前読んだ加藤清正と同様知行地付近の蔵入地代官に脇坂安治を任じている。

 

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安治の知行地と蔵入地の分布は下図の通りである。

 

Fig.3 脇坂安治知行地と秀吉蔵入地分布

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                   『日本歴史地名大系 兵庫県』より作成

下線部⑤の「育波」は53石が安治知行地、827石が秀吉蔵入地で、その比はおよそ6:94である。また加藤嘉明と脇坂安治の知行地と蔵入地の淡路国における石高の割合は下図のようになる。

 

Fig.4 淡路国知行地と蔵入地の比率

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                         2005~2008号より作成

 

*1:嘉明

*2:安治

*3:史料3

*4:史料3

*5:淡路

*6:脇坂

*7:

*8:育波

*9:御代官

*10:淡路

*11:御蔵入目録

*12:榎列

*13:国衙

*14:徳長

*15:育波