天正13年11月29日、グレゴリオ暦1586年1月18日、ユリウス暦1586年1月8日午前零時ごろ、畿内・東海・東山・北陸地方を地震が襲った。飛騨国の帰雲城が一夜にして埋まったと伝えられるあの天正地震である。美濃国郡上郡の長瀧寺「荘厳講記録」には「日本国中在々所々滅亡に及び候」と記録されている。地震による被害については後日を期したいが、おおむね下表の赤字の国は壊滅的だったと伝えられている。
Table. 天正13年地震
今度之大地震*1ニ天主以下焼散之処、其方長島*2ニ有合*3、茶湯道具取出候事、奇特*4に候、すき*5の段不及聞召候へとも*6、茶湯道具心をかけ*7候事、心中之程床しく*8成候、委細津田小平次*9相含候也、
十二月四日*10 秀吉御朱印
飯田半兵衛尉殿*11
『秀吉文書集二』1766号、291頁(書き下し文)
このたびの大地震に天主以下焼け散るのところ、その方長島に有り合わせ、茶湯道具取り出し候こと、奇特に候、数寄の段聞し召しに及ばずそうらえども、茶湯道具心を懸け候こと、心中のほど床しくなり候、委細津田小平次相含め候なり、
(大意)
このたびの大地震で天守をはじめ城が火災に見舞われたのに、長島に居合わせたそなたが、茶湯道具を救い出したこと実に立派な心がけです。そなたに風流を愛でる趣味があるとは聞いておりませんが、茶湯道具を一番に心がけるとは親しみを感じます。詳しくは津田秀政に申し含めております。
本文書は天正地震について言及した、秀吉の数少ない文書のひとつである。
飯田半兵衛尉は織田信雄家臣で反秀吉、親家康派であった。1年前の天正12年10月29日、家康から11月1日出馬する旨の書状を受け取っている*12。
しかし翌天正13年1月下旬秀吉側から羽柴秀長が、信雄側から半兵衛尉が名代として出向き、講和を結ぶ*13。信雄は2月に上洛し、大坂に下向する。このとき織田政権の復権は完全に潰えた。
秀吉は1月28日付で半兵衛尉に、秀長をもてなした礼と信雄の上洛を確認する旨の書状を書き送っている*14。そうしたわけで半兵衛尉のことは、かなり前から秀吉の耳に入っていたはずである。下線部の「数寄の段聞こし召しに及ばず候」というのは、あれやこれや入ってくる真偽不確かな「噂」には、茶の心得があるという話はなかった、という意味なのだろう。
個人的には、燃えさかる城内に飛び込み、茶道具を救い出した半兵衛尉に対して、「茶の湯の心得があるとも思えないが」などという「余計なひと言」は書かなくてもいいと思う。