猶以従播州*1西事者不存、於東者津軽・合浦・外浜*2迄、我等鑓先ニ可相堪*3様依無之、悉羽柴応鞭先*4隙明*5候間、可御心安候、以上、
(本文中略)
前〻せかれ*6の時さへ、信長於家中者、秀吉真似をも可仕者無之候つる、只今之儀者、中々*7従板東ニ筑前守少も可立合*8者無之付而、人数之儀者、八幡大菩薩*9我等恣*10御座候間、可御心易候、(以下略)
卯月十二日*11 秀吉(花押)
毛利右馬頭殿*12
御報
「秀吉一、641号、205頁」(なお同日付、ほぼ同文の小早川隆景宛書状は640号)
(書き下し文)
(本文抄出部分)
前〻悴の時さえ、信長家中においては、秀吉真似をも仕るべき者これなく候つる、只今の儀は、なかなか板東により筑前守少しも立ち合うべき者これなくについて、人数の儀は、八幡大菩薩われらほしいままに御座候あいだ、御心易んずべく候、(以下略)
なおもって播州より西のことは存ぜず、東においては津軽・合浦・外浜まで、われら鑓先に相堪えるべきさまこれなくにより、ことごとく羽柴鞭先に応じ隙明け候あいだ、御心安んずべく候、以上、
(大意)
(割愛した部分の要旨:滝川一益・柴田勝家ら織田信雄に対して「謀反を企てた」者たちが高山に立て籠もっていますので、付城をつくらせているところです。二三日中にも上洛するつもりですのでご安心ください。)
以前まだ若く小物だったときですら、信長家中において秀吉のようなことを真似できる者はいませんでしたから、今では板東より東に秀吉と相並び立つ者などおりません。我が軍勢は八幡大菩薩に誓って思いのままに動けますのでご安心ください。
なお、播磨より西のことは存じませんが、東においては津軽・合浦・外ヶ浜までわれわれの軍勢に歯向かう者などおりません。羽柴が鞭の先を向けると皆先を争うように道を空けていきますのでご安心ください。
Fig. 「津軽合浦外浜」概略図
いまだ滝川・柴田軍と交戦中ながら「東においては津軽・合浦・外浜まで」ことごとく羽柴の思うがままに動かせると述べている。もちろんこれは対毛利への牽制で事実とは到底いえない。むろん毛利側もその点は織り込み済みであろう。こうした大言壮語を黒嶋敏氏は「武威」と呼んでいる*13。
さてただのホラ話であっても、織田政権における信雄と秀吉の関係をうかがうことはできる。省略文中において「信雄に対し謀反を企て候」としつつ、「羽柴鞭先に応じ」と東日本が秀吉の軍門にくだっていると毛利側に述べている部分である。ここから織田政権は信雄が掌握し、その軍事部門のみを秀吉が担っていたと解釈することもできるし、あるいは信雄を主君としながら秀吉が政権を換骨奪胎しつつある、豊臣政権胎動期と見ることもできる。